テキスト4

□雨
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夜半から降り続けている雨は、その勢いを衰えさせることなく、同じリズムを刻んでいる。

六郎は雨が嫌いではない。雅人を気取るつもりはないが、雨に打たれる木や池は純粋に美しいと思う。雨音も好きだ。高尚な楽の音よりはよほど耳に心地がいい。こうして静かに降り続ける雨は世界を見慣れた風景から変質させ、ちょっとした孤独を連れてきた。高い空の上に一人で居る時と少し似ていて、そして違う。空を飛ぶ時に感じる孤独が自由から来る孤独ならば、雨の連れてくる孤独は家の中に優しく閉じ込められているかのような、ままならない孤独と言えばいいのだろうか。





庭を見下ろす二階の渡り廊下。来客も使用するこの廊下は、窓から扇家の美しい庭が見下ろせるようになっている。
そこの窓を一杯に開いて六郎は未だに降り止まないを見つめていた。
明け方の空は暗いがそれでも何も見えないという程でもない。庭の輪郭が雨に叩かれ、薄ぼんやりとくすんでいるのが見えた。

「ただいま」

空から唐突に声がおちてくる。同時に、ふわっと大きな鳥が目の前で羽ばたいた。
黒い鳥は優雅にその翼を畳んで窓枠に止まる。

「入れて」

よく見ればその鳥は七郎だった。時代錯誤な黒いコートに身を包んでいる。今晩は仕事に出ていたのか。ぐっしょりと水を含んだコートは随分重そうで、その裾からポタポタポタと水滴が床に落ちていくのを見て、六郎は眉をひそめる。

「床が濡れるだろう、玄関から入れ!」

使用人は今頃主人の帰りを待っているはずだ。雨の中の帰宅を気遣って、玄関先には暖かいタオルや、水滴を落としても問題がないよう敷物が用意されていることだろう。それなのになぜわざわざ窓から入ろうとするのか。

「まいったよ、唐突に降ってくるなんてね」

相変わらず人の話を聞かない七郎は、六郎を押しのけるようにして室内に入ってきた。
こうして見るとまさに全身濡れ鼠だ。前髪をかきあげると水滴が辺りに飛び散る。

「靴を脱げ」

「おっと、そうだったね」

六郎は鋭く注意をした。水は放っておけば乾くかもしれないが、泥が残ると厄介だ。
弟は大人しく靴を脱いだ。地面を全く歩いていなかったのだろう、床には全く泥がついていない。


「でもどうしたの、こんな朝早くに廊下で突っ立っちゃって。」

「別に…特に意味は」

「もしかして俺が帰ってくるのを待ってた?」

「違う!雨音で目が覚めたから庭を見てただけだ!」

「ふーん、それはいいけど、冷たい風に当たってると体に悪いよ。」

たいして興味もなさそうな口調で喋りながら、コートを脱ぎ床に置く。下のスーツも濡れていた。形が崩れているためもう着ることは出来ないだろう。ネクタイと靴下も脱いで楽な格好になり一息ついた七郎は、壁にもたれながら腰を下ろした。そんな弟に注意することは諦める。床は随分悲惨なことになっていたが、どうせ後始末をするのは六郎ではない。

「はーすごい雨だった、もうクタクタだ。」

「良かったんじゃないのか、血の臭いが流れて」

「・・・」

七郎は特に何も言わない。その表情も変化しない。何事もないように会話を続ける。

「もしかして六郎兄さん、雨が好き?」

「…なんでそう思うんだよ。」

「兄さんって好きなものと嫌いなものがわかりやすいからさ。わざわざ窓開けてぼーっと外眺めちゃう程には好きなんだろ?それで俺のことは大嫌いなんだよね、知ってるよ。」

七郎はケラケラと笑った。その通りなので否定してやるつもりもなかったが、その様子に苛立つものを感じた六郎は小さく舌打ちをする。


そのまま二人とも黙り込んだ。沈黙の上を雨の音だけが流れていく。


どのぐらいそうしていただろうか。やがてくしゃみをするようになった弟を見て、六郎は自分の羽織を弟の頭の上に放り投げた。

「え」

「ないよりマシだろが。それでさっさと下に行け、着替えるなりなんなりしてこい。風邪ひきたいのかよ」

「う、うん。でもこれ…濡れるよ?」

「別に構わねぇだろ。羽織は幾らでもかわりがあるんだから。」

「は、はははっ、ホント兄さんって甘いんだからさ。」

馬鹿じゃないの。あからさまな嘲笑混じりの声に六郎は眉を吊り上げた。文句があるなら返しやがれと怒鳴りつけようとしたところで、相手の様子がおかしいことに気がついた。


「…寒い」

見下ろすと俯いて小さくなった弟が、寒さを堪えるように体を抱えているのが目に入る。

「おい、」

「大丈夫、」

まさか雨に打たれて熱でも出したのかもしれない。濡れた床に膝をついて弟の顔を覗き込む。

七郎が頭を上げた。羽織に隠されていた顔が目に入る。

…見たことの無い表情だった。小さい子どもの頃から知っているが、こんな顔は見たことが無い。これは自分が見てはいけないものなのではないか。そんな予感がする。といってもそれが一体どういうものであるのか六郎には説明が出来ない。チリチリする首筋を撫でた。

目の輝きは鋭い。真剣、とも違うような気がするが、雰囲気としてはそんな感じだろうか。その目線に晒されていると、何もかも剥ぎ取られてしまいそうな不安が湧き上がって来た。

いつも跳ねている髪は水を含んで重く垂れ下がり、端整な輪郭にはりついている。髪の先から落ちる水滴が首筋から鎖骨へ落ちていくのが見えた。水に濡れたシャツは半分透けて体に纏わりつき、体の線がうっすらと表れている。子どものように華奢ではなく、かといって大人のように強靭でもない。羽化直前の、未完成な美しさ。

「寒いんだよ、ねえ」

シャツの胸の部分を握り締めて七郎は言った。こちらを見つめる瞳は熱っぽく、六郎は何が起こっているのか理解も出来ぬまま、とりあえず弟の額に手を伸ばす。

額に指が触れた瞬間、七郎は甘い息を漏らした。それを聞いて六郎は動揺する。別に悪いことをしているはずではない、なのに胸がざわつくような罪悪感があった。

「兄さんは、暖かいね」

それはそうだ。水に濡れていないのだから当然だ。

額に手を伸ばしたのはいいものの熱があるかどうかは良くわからなかった。とにかく、熱があろうとなかろうと今の状況が体に良いわけがないので、さっさと下に連れて行って使用人になんとかさせるべきだ。そう考えて弟を立たせようとしたが、重たくて上手くいかない。やがて床が濡れているため足を滑らせた。尻餅をつく。

「いっ」

「大丈夫?」

声がすぐ側で聞こえたため嫌な予感がして顔を上げる。案の定、睫毛が見えるような至近距離に七郎の顔があった。圧し掛かるようにしてこちらの顔を覗き込んでいる。視線は強く、未だに暗い朝の闇の中にあって獣の目のように光っていて、六郎は標的にされた小動物のごとく身動きが取れなくなった。弟の髪から生まれた水滴が、自分の顔の上にポタリ、ポタリと雨のように降り注いでいるのを、ただ呆然と見つめていた。

人のいない早朝の廊下、降り注ぐ雨の音。それに混じって七郎の荒い息が耳につく。とても苦しそうでありながら、その息は絡みつくように甘い。
…吸い込むと目が回る。

「ねえ兄さん。」

ふと思い出す。小さい頃欲しいものがあると、弟はこちらに纏わりつきながら、甘えた声でおねだりをして来た。「調子が良い奴」とうんざりしながらも、思えばいつもその声に負けていたような気がする。
あの頃と変わらない甘えた口調。ただ、そこにはかつて存在しなかった猛毒が隠されている。



「暖めてくれない?」









目線の圧力に押しつぶされて息が出来ない。それでも喉が空気を吸い込もうとヒュウヒュウと音をたてる。酸欠を起こしそうになったころ、体がふっと楽になった。目線が外されたのだ。

「…冗談だよ。」

そう言って七郎は素早く立ち上がった。廊下の端に素早く目を配る弟を見て一体何事かと思う。
やがてパタパタと人の足音が響いてきて、さすがに六郎も気がついた。
朝の清掃の時間なのだ。使用人の朝は早い。
清掃道具を抱えた古参の使用人は、七郎を見るなり悲鳴を上げた。

「七郎様、何をなさっているのです!お帰りになっているのならそうおっしゃって下さいまし!」

「ああ、窓から入ったんだ。六郎兄さんの姿が見えたから、つい。」

「つい、ではございません。お風邪を召されたらどうするおつもりなのです。すぐにお風呂に入って下さい。大事なお体なのですから―――。」

「わかってるさ。また仕事があるってことはね。」

七郎は肩を竦めてそっけなく言った。一方使用人の方は、床の惨状に目を見張っている。

「ああもう床が濡れてるじゃありませんか。ワックスを塗ったばかりですのに。またお客様がいらっしゃるというに、本当にもう。」

ブツブツと文句をたれる使用人に対して、七郎は早々に話題を打ち切ってみせた。

「悪かったよ、次から気をつける。さあ行こう六郎兄さん。」

「あ、ああ」

ここにいると説教されてしまう。弟の提案は渡りに船だったが、力が抜けていて思うように体が思うように動かない。よたよたと立ち上がろうとしていると七郎に腕を掴まれて引っ張り上げられる。片手で軽々と持ち上げられたことに軽くショックを受けつつ、弟に引っ張られるままに歩き出した。

「雨が好きって言えるのは暖かい場所にいられるからだよね。」

六郎は目を瞬かせて先導する弟を見た。七郎は振り返らない。軽い声だけが聞こえてくる。

「誰もいない雨の日の家って嫌なんだよね。静かだし寒々しいし退屈だし、かといって外に出て行くのも億劫だし。女の子は雨の日の外出、嫌がるしね。」

「…六郎兄さんがいてくれたら俺も雨が好きになれると思うよ。」

はあ。六郎は気の抜けた相槌を打つ。実のところ良く意味がわからなかったが、悪い意味ではないということは伝わってきた。多分それで良いのだろうと思う。向こうもこちらに分からせようだなどと思ってはいない。

…そんなことよりも腕がずっと掴まれていることが気になって仕方がない。以前なら子ども扱いだと腹を立てているところだろうが、今はムズムズして居心地が悪かった。なんだか動悸がする。冷たい風に当たったのがきっとよくなかったのだろう。これは早く布団に入った方が良さそうだ。それでもずっとこうしていたい気もする。

きっと雨のせいだ。ちょっと寂しいような気にさせられるから…そうに違いない。六郎は手を振り解くことないまま、窓から見える曇った空をにらみつけた。




雨は未だに降り続け、住人達をままならない世界に優しく閉じ込めている。




(おわり)
22.5.9

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