テキスト4

□鏡
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六郎は鏡を見ない。


単独行動の時は顔を隠してしまうから気にする必要はなく、兄たちと行動する時はそもそも自分の姿など誰も見ることはない。だいたい年頃の女でもないのだから、いちいち気にするほうが間違っている。六郎はそう考えている。

しかしそんなことは単なる言い訳にしか過ぎない。そんなことはとっくの昔に自覚していた。
自分は見たくないのだ。それを思い知らされるのは、意図せず自分の姿を覗いてしまったときだった。


ある時は水面に。
ある時は夜の窓ガラスに。
ある時は磨きぬかれた食器に。


―――肌というよりは肉と言い換えた方がしっくりとくる質感の皮膚。無理をすればところどころ痛み、爛れる。鼻と目蓋はない。剥き出しになった丸い眼球が欠けた部分を補おうとするかのようにその存在を主張している。表情も個性も限りなく剥ぎ取られたその姿は、なまじ人の姿に近い分、強い嫌悪をもたらす―――。


瞬間そこに映る化け物の姿。それに、心臓を貫かれるような痛みと恐怖を覚えるのだ。


肉体に改造を施した後、六郎は長く意識を失っていた。目が覚めた時見えたのはいつもの見慣れた天井で、白い靄がかかったようにはっきりとしない頭を抱えて、習慣のまま洗面所に向かった。
そこで鏡をのぞきこんだ六郎は吐いた。空っぽの胃には胃液しかなかったが、それでも吐き続けた。そこでようやく自分が体を改造したことを思い出したのだ。覚悟はしていた。兄達の容姿を見て予想もしていた。しかしこうやって鏡に自分の姿を映してみると、見慣れた姿が全く別のものに変化していることに、全身が拒否反応を起こしていた。吐いて吐いて吐いて、なけなしの体力を使い果たして再び気を失った。鏡を見ても吐き気を覚えなくなるまでにはそれなりの時間がかかった―――


沈んでいく夕日。それを扇家の廊下の窓から眺めながら、六郎は怪我で萎えた手の平を強く握り締める。


単に居場所が欲しかった。
「ここにいていい」と言われたいだけだった。
そのために、たった6人の世界のために、自分もそこに所属しているという証明のために。それ以上の意味を見出すこともなく、六郎はこの姿に「落ちた」。
そのことについて彼は後悔しない。しても仕方がないからだ。嘆きもしない。嘆いたところで誰も助けてはくれないことを六郎は良く知っていた。

そうやって弱者は弱者なりに、後ろを振り向かない生き方を心がけていたつもりだが、それでもこうして兄達と切り離されたことで途方にくれているのも確かだった。兄達と一緒でなければこの体に意味などない。異端であることだけを抱えて生き続けなければいけない、その重さが今更ながらに圧し掛かってくる。



廊下の一角に吊るされた姿見に六郎は今の自分の姿を映してみる。
鏡の向こうには醜い怪物がいて、同じようにこちらを見返していた。不思議なことに恐れはなかった。ただただ哀れだった。
手を伸ばした。その怪物も六郎の動きに合わせて手を伸ばす。
怪物同士、鏡を挟んで見つめあう。
触れ合ったように見える指先は、ただ冷たいガラスの表面に触れただけだ。









プリクラを撮ろうよ。そう女の子達に甘えた声で袖を引っ張られれば、男の身としては断ることなど出来ようもない。七郎はにこやかに快諾した。あとで分けて貰った写真には軽薄な表情で笑みをつくる自分の顔がはっきりと残っていて、人の目にはこんな風に映っているのかと複雑な気持ちになった。自分の顔が嫌いなわけではない。不細工であるよりは良いに決まっているし、何よりも利用価値が高いのだから。そのせいで面倒事に巻き込まれることもあったが、利点の方が遥かに大きかった。人間関係を円滑に保とうと思えば、この顔の作る笑顔は非常に有効だ。

帰宅した七郎は、しばらく写真の中で笑う自分の顔を眺める。この時何を考えていたのか、楽しかったのかそうではなかったのか、どうにも思い出せない。

「……」

七郎は考えるのをやめた。無言で写真を屑篭に投げ入れる。

制服を着替えて部屋の外へ出て行く。夕暮れの光が差し込む廊下を歩いていると、思わぬ光景が目に入って七郎は足を止めた。廊下に置かれた古い姿見。それを六郎がぼんやりと見ていたのだ。


夜行から帰ってきた六郎は体中に文様が刻まれていた。全身を縛り付けるような痛々しい呪式は彼を更に人ならぬものに見せていて、もう少し別のやり様がなかったのかと思ってしまう。しかしこの紋のおかげで彼は生き延び、特殊な水溶液に浸からずとも生活できていることを考えると、夜行には感謝すれども非難など出来ようはずがない。それでも扇家のスタッフが治療していたならあるいは――――と七郎はそこまで考えて、もしそうなったら六郎は生きていなかっただろうという結論に達した。肉体改造に長けたスタッフに心当たりはないし、尾久仁も扇家が相手では警戒して虎の子の術者を貸し出しはしなかっただろう。なにより尾久仁に借りをつくってまで六郎を助けるメリットは、扇家にはない。

六郎が生き残ったのはまさに奇跡だった。計算出来ない人の心の絡み合いが彼を生かしたのだ。ただ、それが六郎にとって幸福なことだったのかどうか。一人廊下に立ちすくむ兄を見るとそう思わずにはいられなかった。

七郎の目の前で、兄はしばらく鏡を眺めていたが、やがてゆっくりと姿見に手を伸ばした。彼の仲間はいまや鏡の中にしかいないというかのように。その静かな、どことなく儀式めいたその光景に七郎は思わず声をあげる。


「兄さん。」

声をかけた後で、止めておけば良かったと思う。
ここは見ないふりをして静かに引き返すべきだった。気まずい場面を見られたことに腹をたてるのではないかと考えたが、しかし六郎は怒りも驚きもしなかった。七郎の姿をちらりと見て、緩慢な動作で手を下ろす。そのいつになく静かな様子が七郎の不安を掻き立てた。

「お前か。」

「鏡の前でなにしてんの、一体。」

「別に」

その声には苦いものが含まれていたが、それ以上に諦めの色が強かった。どこか遠い所を見るような眼差しが殊更印象に残った。

「醜い生き物だと、そう思っただけさ。」

そう言って六郎はニヤリと笑った。その笑みを見て、何も言うことが出来ず七郎は黙る。確かにその通りだ。その通りだったが、同時にそうではない、と強く自分の中で訴えるものがあった。その違和感を説明することは出来なかったが、体は自然と動いた。

鏡から目を逸らさない兄に近づき、頬にそっと手を添える。ビクリ、と六郎の体が震えるのがわかったが、無視したまま、親指で顔の上に描かれた呪印の上を丁寧になぞった。

何がしたいのか自分でも良く分からなかった。分からなかったが、硬直して動かなくなった六郎の丸い瞳を見返しながら、ただ手の動くままに任せていた。

・・・六郎の醜さは愛されなかったことの証なのだ。初めは力に愛されず、そして兄達に愛されなかった。それが兄にこうして傷跡として残っている。なぜかふつふつと沸き起こる、今触れているこの肌に爪を立てたくなる衝動を我慢して、黙って頬を撫で続けていると、ぱしっと軽い音をたてて手が払われた。

手を引き戻して六郎をみる。一瞬の視線の交差の後、彼はさっと目を逸らした。

「同情なんて真っ平御免だよ。」

そう言ってそのまま顔をあげることなく、彼は弟の横をすり抜けていった。着物の裾をたなびかせながら廊下の向こうへ消えて行く。

その兄の後姿を見送った後、残された七郎は同じように姿見をのぞきこんでみた。そこにいるのは誰からも注目を浴びる端整な顔の青年――――。

馬鹿馬鹿しくなった七郎は指を軽く動かす。
風の鳴る小さな音とともに、ビシリ、と鏡の表面に亀裂が走り、映っていた景色も大きく歪む。
このまま放置しておけば使用人が勝手に処分するだろう。もしかしたらそれなりに値の張るものだったかもしれないが知ったことではない。そしらぬ顔で立ち去ることにして、七郎は携帯をポケットから取り出した。ずらりと並ぶ着信履歴を確認する。

最後にひび割れた鏡に映るひび割れた自分の顔を冷たく見返して。七郎は携帯のボタンを押しながら歩き始めた。

しばしの沈黙ののちに、軽薄で明るい声が廊下に響き渡る。





「あ、もしもし?さっき電話くれたよね?どうしたの――――」






(おわり)
22.4.18

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