テキスト4

□三日月
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銀色に鈍く輝く、剣先のように鋭い三日月が天空に浮かんでいる。きっと人々は、不吉なまでに美しいあの月をそう表現するのだろう。だが七郎は誰かに問われればこう答える。あれは、
―――『切り裂かれた夜空の傷口から光がのぞいている』のだと。






空の王者は誰なのか。どこまでも果ての無い、この無限の世界の真の支配者。
生のほとんどを旅することに費やす渡り鳥でもなく、勇壮な翼を広げる鷲でもない。風を全身に纏わり付かせながら七郎は口角を吊り上げた。


間違いない。それは自分だ。


血が沸騰したように体を押し上げる。世界が彼に、彼だけに与えた権利。大気を意のままに操る、人の枠を超えようとするその行為に、狂暴なまでの陶酔が流れ込んでくる。

ピッ

小さな音がした。何かが弾けるようなほんの小さな音だ。
なめらかな皮膚に刻まれる一本の白い線。瞬間、

ザシュッ!

という音をたてて血が噴水のように噴き出した。
壁に鮮血が飛び散る。その生温かさが伝わってくるような、濃厚な鉄の匂い。

ピッ

また肌色の皮膚に白線が刻まれる。ぱっくりと開いた隙間から美しい桃色の肉が見えた。

ザシュッ!

あっという間に赤に侵食され、それも見えなくなる。
新たに撒き散らされた血は、先程壁に出来た模様の上に更にまだらの模様を描いた。
子どもの乱暴な落書きにも満たないはずのそれが、まるで抽象画のように崇高に見えるのはなぜなのだろう。

きっと人の命を絵の具として描かれているからだ。尊いものを代償としているのだから、生まれるものも尊いものであるはずだ。そうだろう?絵筆を振るうように、風を操るその右手を振るった。

ザシュッ!

その度に赤い染料が部屋を鮮やかに染め上げていった。


今や全てが「死」という芸術の完成に向かおうとしていた。巨匠の手で創造される最高の絵画。並べられた小さな灯火も、赤い血の広がる壁も、床も、転がる体も、天空で無数に光っている星々ですらその為の役割をふられ、忠実に果たしている。
そして極めつけは見上げると細く、細く、極限まで細く延ばされた銀の月。
いや、違う。あれは隙間だ。七郎は嘲笑った。死神の鎌で切り裂かれた空。そこからのぞく肉のなんと艶やかなことか。


夜空にぱっくりと開いた傷口から飛び散った光が世界に降り注いでいた。

その光を全身で浴びて、七郎は抱擁を待っているかのように腕を広げる。




見ろ。





世界はこんなにも美しいじゃないか!
















ポタ ポタ ポタ・・・


死体からこぼれ落ちる血液が小さな水音を立てて赤い水溜りに波紋を作っていた。

そこから生まれた細い筋が、ゆったりと腕を伸ばして七郎の足元に届こうとしていた。ほんの半歩、足をずらす。血の川は彼に触れること叶わず、のろのろと力なくその隣をただ流れていく。

荒れた部屋の中。流れの源を目線で辿ると、赤の一切を失った不自然な青白い顔がそこにあった。
無理な姿勢で倒れたその姿はどこか昆虫じみている。カクカクと曲がった関節。床を掻き毟ったのだろう、爪が剥がれているのが痛々しい。瞳孔の広がった瞳は白く濁り、己の無念を伝えようとするかのように大きく見開かれていた。

七郎はその抗議の視線から顔を背けた。頭が重く、痺れたようにはっきりとしない。働かない頭の命ずるままぼんやりと呟く。

「・・・帰らないと。明日も学校だしね・・・。」

だがその前にやらなければならないことがある。虚脱感と罪悪感を振り切って七郎は姿勢を正した。片手を胸に当てて、目を閉じ、もの言わぬ遺体に優雅な一礼をする。

「良い旅を。」

そう言い終わると同時に風が細い金属音をたて始めた。
やがて大きな音と共に、無残な遺体も、血の川も塵となる。

ようやく終わった。深く息をついて長い前髪をかき上げた。空を見上げる。
月は西に傾き、夜明けが近いことを告げていた。

本当に美しい月だ。七郎はそう思う。この時期の月を見るといつも思うのだ、まるで

切り裂かれた傷口のような―――

「・・・!」

思わず口元を手で押さえた。逆流しようとする何かをなんとか押さえ込んで、七郎は小さく舌打ちを打つ。何度人を殺して、どれだけその光景に慣れたつもりになっていても、時たまこういうこともあった。仕事中、陶酔に支配されて置き去りにしていたものが帰ってくるのだ。・・・一体どのぐらい繰り返せば平気になるのだろう。見当もつかない。

「やってらんないよ、ったく。」

擦れた声で悪態をつきながら、ふわりと空中に浮き上がった。ここからまた家に帰るのだ、だるいったりゃありゃしない。・・・いつもこの帰りが辛いのだ。車で迎えに来い、といってみたことがある。即「車では行けません」と答えが返ってきた。思うに、扇家のスタッフは根性が足りない。

七郎はヤレヤレと首を横に振る。月に背を向け、様々なものを含んで重たくなった体を引きずるように飛び始めた。



―――上空から見ると東の端がうっすらと明るみ始めている。やがてすぐに朝日が昇ってくるだろう。そうすれば、彼が鎌で無造作に傷つけた夜の時間もようやく終わりだった。
太陽の光は空を癒し、傷一つない青い空が再び頭上に広がる・・・



その空の下へ帰るため、七郎は長い帰路につく。





(おわり)
22.3.31
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