東方異人録 〜 The Sorrowful Rule.

□序 章『暗闇の世界』
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『御天道様が荷をくくり、空割け地が割れ闇来る、黒き王に玉座を渡す――』

 歌があった。
 それは遥か昔、世界を席巻した者――歌中になぞらえる黒き王を謳った歌だ。

『地の生き物が屑と散り、恐れ敬い闇に消ゆ、黒き王に唯逃げ惑う――』

 揺れる、揺れる、揺れる。
 未だ幼い少年の耳にはその歌が延々と流れていた。
 彼の濡れて揺れる視界に映るは螺旋の様に蠢く混沌とした黒。

『地下より出でし黒き兵、斬って払って光を闇へ、黒き王の命の下――』

 歌が途絶える。途端になにもかもが闇に失われた世界に静寂が満ちる。

 ――黒き王。

 放心状態に近い虚ろな表情を浮かべた少年は呟いた。
 果たしてそれは静けさをまぎらわそうとしたのか、それとも反射的に口から漏れたのか。少年以外誰にも分かるまい。

『闇、黒き王』

 しかし彼が呟くと同時に、少年の近くでふと彼と同じ声が断続的に言葉を紡いだ。
 歌が孕んだ共通の台詞を、まるで呪文の様に。

 不意に――すぐ近くで何かが水溜まりに無遠慮に足を踏み入れたかの様な乱暴な音が響く。

 少年の頬に何かどろりとした物が飛着した。それが何かは、辺りが闇に呑まれていて分からない。
 ただ、むせかえる様な鉄錆びの匂いを少年の意識は認識していた。

『闇、黒き王、来る』

 再び、少年の近くで同じ声が鳴る。

 何かの気配がした。
 直ぐ様それは獅子や虎の怒りが子猫の戯れに思える程の、常識から逸脱した恐ろしいものだと少年は察する。

 だが、彼が動く事は無かった。

 どんな闇よりも深淵で、どんな暗黒よりも至純であり――目の前に顕れた純然たる漆黒を見上げていた。

『黒き王』

 その一律な声がその漆黒を指差すかの様に言う。それは人の形をした漆黒。
 大きく頑強な、無双を語る恐ろしい漆黒だった。

「何故……」

 底に響く、重々しき声。
 感情の抜け落ちた、無機質で、恐ろしい声色だった。
 だが、少年はその声が震えているのを微かに感じた。まるで嘆く様な、慟哭に打ち震える様な……

 ――悲しみの、理。

 二度目の言葉を、少年が呟いた。
 それは仄かに記憶に残った、昔……誰かが言った言葉。

 悲しみを生み出すだけの、神々が創造した法則――理に嘆き、語られた言葉。

 その言葉に漆黒が微かに揺れる。
 漆黒の手が静かに動いた。闇より深い軌跡がゆらりと残り、それは少年の頭上に掲げられる。

「――――」

 消え入る様な声で、漆黒は呟いた。
 しかし、この世界は沈黙に閉ざされている筈なのに……それは少年の耳に届く事はない。

 バシャリ、と今度は少年の耳元で液体が弾ける音がした。
 彼が自分が仰向けに倒れたと知ったすぐ後――少年は先程の液体に体が浸される感触を覚える。

 そして、少年は始めて知った。

 自分が“誰か”の血が生み出した池に浸されている事を。
 暗闇の中で四散した肉塊達が幻灯の様に浮き出している事を。


 ここが地獄だという事を――


 禁断の果実を食した人[アダムとイヴ]の様に暗黒の世界でふと開いた目が、彼に全てを知らせたのだ。

「あ……――」

 言葉を、視界を遮る様に漆黒の手が眼前を覆う。体を動かそうとしたが、鉛の様に重い体はまるで動かない。

 だが途端に意識に霞がかかり、大きな薔薇に呑み込まれていく様に少年の体が沈んでいく。

「どうして――」

 もはや消えかかった意識の中。
 少年は最後の抵抗が如く漆黒に向かってそう言った。

 ――どうして自分は此処にいるのか。
 ――どうして……こんな事になってしまったのか。

 ――どうして……どうして……!

 それは、苦渋に燻された叫びにも近かった。

「…………」

 答えは、無い。
 表情すら見えない人型の漆黒が、静かに首を振ったのを最後に、少年の意識は闇に呑まれた。

 その時。
 少年の意識の外で、高く高く――この世のモノとは思えぬ何かが吼えた。
 まるで少年の悲鳴を代弁するかの様に。




 一九八七年二月七日。
 二度にもわたる史上最悪の事件から世界が復興し、目覚ましい発展を遂げていく躍動の時代。




 この日、闇に覆われた屋敷の奥で、少年は全てを失った。




序章『暗闇の世界で』・了

 

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