壱之庭
□楽涙
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突然声が掛けられ、二人が振り返れば、秀麗を抱いた薔薇姫と、珠翠がいた。
転げるように駆けて来た珠翠は北斗の前で足を止め、その長身を見上げる。
「珠翠……」
「行かれるのですか?」
真っ直ぐに北斗を見つめ、珠翠は尋ねる。
「あぁ、見送りに来てくれたのか……ありがとな」
北斗は珠翠の頭を包むように掌を置き、優しく撫でる。だが何時もの陽気な様子は影を潜め、何かを言おうとしては口篭る。
「……いいか、珠翠」
やっと口を開いた北斗はそのまましゃがみ込み、目線を珠翠に合わせ覗き込んだ。
「お前が惚れるなら魁より強い奴‥ってのはちと難しいか。でも、俺より強い男じゃないと駄目だぞ?」
真剣な北斗の様子に、珠翠の表情も真剣になる。
「お前を一生守るって約束出来る強い男にしか、俺は嫁にやらんからな」
傍らで聞いていた邵可と薔薇姫は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
北斗の言葉はまるで娘に対する父親の台詞で、それも滑稽な程に真剣で。
「覚えてるか? 魁があの場所から姫さんを連れ出したように、お前が何処かに閉じ込められても、必ず連れ出してくれる男だぞ?」
北斗はこくこくと頷く珠翠の頭を、ぐしゃぐしゃと撫で回した。
「よし、約束だ」
「はい、北斗兄……約束します」
北斗は何度も満足そうに頷いて身体を起こすと、邵可と薔薇姫に向き直り頭を掻く。
「……こういうの、苦手なんだけどなー」
「ふんっ‥妾と珠翠を除け者にして、男二人で何をいちゃいちゃと……」
ぎろりと薔薇姫に睨まれ、北斗と邵可は身を竦めた。
「悪かったってっ! そうそう、あんま飲み過ぎんなよ? あんたが酒臭いと、秀麗が可哀想だからなー」
そう言いながら北斗は薔薇姫の腕の中ですやすやと眠る秀麗の顔を覗き込む。
「余計なお世話じゃっ! そなたこそ珠翠や秀麗恋しさに、そこらの子どもを拐うでないぞ?」
「わはははっー、しないしない」
否定しながら一頻り笑って、今度こそ旅立とうと北斗は荷物を担ぎ直す。
「元気でな」
邵可は言葉なく頷き、薔薇姫はただその姿を見つめた。
「じゃあな、珠翠。約束、忘れんなよ」
歩き出した北斗は背を向けたまま一度だけひらひらと高く上げた手を振り、後ろを振り返る事なく行った。
「邵可様……」
その背が見えなくなるまで見送っていた珠翠が、囁くような小さな声で邵可を呼んだ。
「なんだい?」
「目が熱いのです。それに、途中から北斗兄の背中が見えなくなりました」
珠翠の大きく見開かれた瞳からは涙が溢れ出し、落ちた涙が衣を濡らして染みを作る。
「……寂しいと、人は涙を流すものなんだよ。今の君みたいに」
もうすぐ姫様に会えなくなる…そう思った時も寂しいと思った。けれど、その時は『涙』なんて出なかった。
「私は寂しいのですか?」
不思議に思った珠翠が尋ねる。
感情を持つ事なく育てられた少女……一緒に過ごすようになって、笑う事も怒る事も、喜ぶ事も覚えたけれど、涙を流すのは初めてかも知れない。
「ずっと一緒に居た北斗が行ってしまうのは寂しいね。でも二度と会えない訳じゃないから……きっとまたふらりと会いに来るよ、北斗の事だからね」
「はい」
邵可は懐紙を取り出して、涙を拭ってやる。
「それに、君がお嫁に行く時は北斗に来て貰わないとね。なにしろ北斗の御眼鏡に適わないと、お嫁にはやれないそうだから」
それは私も同じ気持ちだけど……そう呟いた邵可は薔薇姫に、お前も北斗の事を笑えんわと呆れられる。