Pandora Hearts
□甘美毒花
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気が付いたら、傷だらけの腕が眼に入った。
息苦しい。
酷く身体が重い。
甘ったるい匂いが鼻腔を擽る。
気持ち悪くなるほどだ。手に触れる白いシーツが妙に映える。倒れているのはベッドの上かと漸く理解する。
にしてもここは何処だ。頭がくらりと揺らぐ。何も覚えていない。ベタなゲームの始まりの様だと呆けた頭が考える。
習ったばかりの数式を並べる子供のようにゆっくりと思考回路が動き出していく。
「おはよう」
聞きなれた、だが気にくわない声が耳に飛び込む。その影響で意識が急に呼び戻された。
甘ったるい声。
甘ったるい匂い。
「ヴィンセント…ナイトレイ…?」
うん、と声の主は笑う。
「おはよう、帽子屋さん」
痺れる身体を捩り声を辿る。だが先に足音と共にひょいと視界にオッドアイが現れた。まだ苦しそうだねとヴィンセントは笑った。
「貴、様…なにをした…」
「帽子屋さんらしからぬ発言だね」
くつくつと優男は笑う。
相変わらず腹が立つ。いや、今はそんなこと考えている場合ではなくて、何より自分のこの状況はなんだ。身体中が痺れ、思うように話せない。部屋に広がる甘ったるい匂い。そしてここは大方ナイトレイ家のこの溝鼠の部屋で。なんなんだ、一体。どうしてこうなった。思い出せない。
「困ってるね、帽子屋さん」
「何を…したと、聞いているんデス……ヴィンセント、様」
「ん〜…誘拐かな」
苛立ちが隠せない。
この男は…身体が動いたら殴り倒してやるのに。睨んだところでヴィンセントは嬉しそうに微笑む。ちょっと待っててねとその場を離れ、暫くしてから小さな小瓶を持って帰ってきた。その中の薄い桃色の液体を口に含み、唇を重ねてくる。抵抗しようにも拒めない。
ねっとりとしたそれが口内に流れ込んでくる。冷たくて気持ちが悪い。
そして、押し込むようにヴィンセントの舌も便乗して口内に割り込んでくる。されるがままとはまさにこのことだろうが、屈辱は半端な味ではなかった。
粘着質な口付け。唾液を多く含み、訳の分からない薬品の粘り気もあわさった気持ちの悪いそれ。
くちゅ…ねちゅ…
響く水音に眉をひそめればヴィンセントはわざとらしい音をたてて離れた。
ふと、身体の痺れが消えたことに気が付く。
さっきの薬品のせいだろうか。
「ん…ヴィンセント様、だから、何が目的ですカ」
「簡単だよ」
再び近づく顔から今度はちゃんと背く。
仕方ないと額に口付けが落ち、ヴィンセントもベッドに座る。倒れている自分の耳元で、甘く囁く。
「僕とエッチしようよ」
「まさか私はそのために誘拐されてきたんですカ?」
再度うん、と平然と答えるこの男をいい加減殺してやろうかと思うが彼の読めない笑顔にいなされる。
しようよと覆い被さられ、嫌に決まってるでショと悪態をつく。
「僕も薬のせいでしんどいんだ…早くしよ?」
薬?さっきの痺れの原因のだろうか。いや、そんなわけない。そんな素振り見せていない。
では何。
血塗れの腕。
これはなんだと問い詰めれば、帽子屋さんが暴れるからと笑われる。ムカついてぶっ殺してやりたいと漏らせば、ぶっ壊してあげるよと見つめ返された。
気にくわない。
本当に。
いつから持ち出したのか、愛用の鋏で他人の服を切り刻むヴィンセント。帰りどうしようなどとまだ真面目に考えている自分にため息をつく。
「私はそんな趣味ありませんヨ?」
「へえ」
「薬だって別にもう痺れてないですし…」
くすりと笑い声が薄暗い部屋に響いた。
「違うよ、帽子屋さん」
「何がデス?」
「これだよ、この匂い」
先刻からのこの甘ったるい匂い。花に似た匂いで、だが何処か毒がある。どす黒い毒のある匂い。
問いただせばこれがどうも媚薬らしい。今のところ自覚はないが触れられたならスイッチが激しく切り替わるらしい。ばかばかしいと眼を背ける。