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□トリトンのフーガ
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彼女は海のようだ。
そう思ったのは最近のことだった。自分の心に燃え盛る黒い炎を大波を被せて消えさせようとするような、その姿が。だが何度水を被ろうとこの炎は消せない。消させはしないのだ。
「…だから無理だって言ってるのに」
手のなかで鉛が鋭く尖った鉛筆を転がしながらひとりごちた。シャーマンファイトが行われている無人島。海を見渡す崖の先に腰掛け、まだ高い日の光に目を細めてさざ波の音に耳をすませる。
指で弾いて宙に浮いた鉛筆をまたキャッチする。
「鉛筆、落としたんだろう?」
ひらひらと背後に向かって鉛筆を揺らしてみれば、木の裏から少女が顔を覗かせる。
「持って行きなよ。何もしちゃいないし、元々キミのものだ」
「……」
彼女は少しいぶかしんでいる。
無理もない。
アメリカに飛び立つ直前の友人を吹っ飛ばすという暴挙、行く先々で耳に入るであろう彼に関する善からぬ噂、彼女の親友である自分の弟の、倒すべき敵。
そんな悪条件ばかりが揃う彼、麻倉葉王に好意を持って近付ける訳がない。
「鉛筆。拾いに来たんだろ。先が折れてたから削っといた」
「………あ」
「ん」
「…ありがとう…」
ハオの手から鉛筆が離れる。少しは警戒心を解いてくれたようだ。
まだ一定の距離を保ってはいるが、すぐ飛びかかって来て無駄に巫力を消費させる頭に血が昇った連中よりもよっぽど物分かりの良い少女だ。
「………………」
彼女に渡した鉛筆はオーバーソウルの刃で削ったので少し焦げている。
彼女はそれを見て顔をしかめた。焦がしたことが気にくわない……という訳ではないようだ。
「"どうしてカッターで削らなかったんだ"って?」
「あ…」
心を読まれた。と顔に出ている。
まずまずだが、一応そっちも用心していたようだ。
「気にしなくていいさ。勝手に聞こえてくるんじゃないんだ」
そう、こうしなければ彼女との距離の取り方が解らない。相手の考えていることを当てて、動揺させるか話題を振るか。そうしなければ引き留めることができないのだ。
「そんなものを使わなくても僕らにはこの方がよっぽど手っ取り早いさ。人間がわざわざ作らなくても」
「…いずれ、シャーマンだけの世界にするから?」
「キミは賢いね。聡明な人間は嫌いじゃないよ」
「私は聡明なんかじゃないし、あなたが望む世界にも生きない」
「嫌いじゃないからってキミを僕の望む世界に生かすなんて、限らないじゃないか。どう転んだって、キミは人間のままだ」
「…あなたも人間なのに?」
いつもより饒舌になってしまうのは、彼女が思っていることをどんどん口にしてくるからだ。
自分の気持ちを隠そうとしないその姿勢は『素直』と言えば聞こえは良いが、自分にしてみたらただの『馬鹿正直』。
今まで世界を回って見てきた奴等とは全く違う。争いの中では、そんな奴に限って死んでいく。
自分が信じようとした奴に限って自分を恐れ、裏切り、別の存在に惹かれていく。
「早く帰ったらどうだい?いきなり居なくなって、葉は心配してるよ」
「……うん」
早く帰れ。
キミも僕を裏切るなら、最初から怖いことに目を逸らして知らないふりをしていて欲しい。
安っぽい正義感振りかざしてるイカれた集団なんかよりよっぽど賢いんだから、僕の口から出る言葉をそのまま受け取ってよ。
「………それでも」
「…?」
「それでも、私は人間でいたい」
彼女は海のようだと感じた。
心に燃える黒い炎に、波を被せて消そうとする、その様が。
けれど彼女は海でも波でもない。
ただの人間だ。
学ぶことを知らない、愚かな人間の一人なのだ。
そんな人間の為に涙を流すなんて、僕はこんなに大馬鹿だっただろうか。
La Fuga dei Tritoni
(トリトンのフーガ)