02/09の日記

22:05
ちょっとまて
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今ラジオニュースで事故のことを話していたのだが私はなぜか怒りを感じてしまった

【今日○○で◎◎さんが猪をはねる事故がありました。猪は死にましたが◎◎さんに怪我はありませんでした。】
これがその内容だ。
猪は死にましたがだと?
もし死ななければ山に帰ることもあったかもしれない。
家族サービスをしたかもしれない。
私は鳥も牛も豚も猪も魚も野菜も好きだしよく食べる。
それゆえに現在の丸々とした肉体美をほこっているのだが、いつも彼らの死を考えず、ただひたすらに美味しい美味しいと食べている。
なぜなら美味しく食べずにはいられないからだ。
よく△△を食べるの?カワイソ!野蛮!って騒ぎ立てる輩がいるようだが、目の前に有るモノは料理でありかつて在った命ではない。
ある命が別の命に万物の計らいをもって命を活かすことを料理というのだが、そこには大切であり尊いと知りながら別の命のためにという心で手を合わせるという行為が自然にとられている。
そこで今回のラジオニュースだ。
【今日○○で◎◎さんが猪をはねる事故がありました。猪は死にましたが◎◎さんに怪我はありませんでした。】
寒い彡(-_-;)彡寒すぎる彡(-_-;)彡
猪は歩いてはいけないのか?
土を奪われた彼らに道はないのか?
いや尊さはないのか?
文面の力が無ければ無力なヒトとは善と悪の重ささえ見失ってしまったのか?
私はよく山に遊びに行くが、その道中はハンパなく集中して運転している。
なぜなら本当だったらそこにいない命が突然そこに文面の狂気に跨がってやってきているわけだから先にそこにある命の営みにとっては紛れも無く障害の一つでしかないからだ。
このニュースは現在という時の中ではたわいのない話かもしれない。
でも私には「何で?」という彼らの声が聞こえてしかたがないのだ。
以前私の目の前で猫が車に跳ね飛ばされ、停車中の私の車のボンネットにぶちあたり、さらに絶叫しながら自ら跳びはね、とっさに助けに行った私の出した手を噛みそのまま絶命してしまったことがあったのだ。
そのときも怒りではなく「何で?」という声が聞こえたように思えたのだ。
噛まれた私の手に滲んだ血は死んでしまった知らない猫の血とまだ偶然活きている私の血で同じく赤いのだ。
はねた車のドライバーや周りの車のドライバーは気持ち悪そうに私と少し前まで猫だった塊をみていた。
私は思う。
たとえなんであれ犠牲の上にのみ生存が許されているのだという気持ちを忘れないでほしい。



今日の誕生花はコブシ。花言葉は友愛…。
自らを愛するならば愛するべきは姿カタチばかりのみでなく、実体のない何かへの愛へと進むべき時代ではないだろうかと私は思います。

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