05/31の日記

00:30
夢・夢・夢…
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5月もついに30日♪早いですね。
せっかく新緑の季節だというのに、いったい今年の春はどうなっているのでしょうね。
某政権の能書きか、近ごろの天気予報かというくらい信用できません。
まぁ、政治のことは書き出すと日付を跨いでしまいそうなので止めておきましょう。
しかし、お天気おじさん、お天気お兄さん、お天気お姉さんに一言もの申す。「お天気のコーナーはあなた方のくだらないだじゃれに苦笑いするための時間じゃないしくだらない厚化粧顔に愛想笑いするための時間でもないのです。せめて情報を読み上げるときは間違いなくすらすらと読んでいただきたい。」
と、ひとしきり書いてスッキリとしたわけですがなぜ最近のお天気情報には季節感をたっぷり含ませる話が少ないのでしょうね。
かつては季節感たっぷりの話に耳を傾けては解りもしないナミナミグルグルマークを疎ましく思っていたものですが、今はただ「ふぅん」である。
きっとこれは季節と天気を伝えることに笑いや人気を意識しはじめたからであろう。
(´-ω-`)そんなものはイラナイ。
おっと、また繰り返し書きたくなるほど怒りがわいてきたので話を変えることにする。
当たらない…いや当たらないかもしれないのが予報というものだと思うが、この予報という不確かながら役に立つモノ… 私はもし自らがみる夢にあればこの上なく嬉しいと思います。
そう言ってしまうと夢が夢で無くなるだろう!
とお叱りの声をたまわりそうだが私が思うのだから仕方がない。
私は幼少の頃にはタクシードライバー、中学生の頃には野球選手、高校の頃には素敵な音を奏でるアーティスト、社会人になってからは魚屋、杜氏、F・1ドライバーとときには親を慌てさせたりする夢多き人であった。
そして今である…。
けして後悔などありはしないし、それなりに楽しんだ。
楽しんだわけだが、いつも夢は何の前触れもなく姿を消してしまっていて、いつも空虚の中でぽっかりと阿呆面して月を見上げている自分をカラワライしながら眺めている自分がいるわけである。
たしかに夢はかなうまで見続けるものなのかもしれない。 だがそれでは自らでさえ夢であったとなってしまう。
人という眼に映る肉の塊を支配する何かはたしかに永遠的で、そこには地を這う緑やときには空さえも手中におさめる獣たちと何一つ変わらず尊いモノである。
それは解っている。いや解っているつもりである。
でもその永遠的かつ不確かな時の中の一瞬である今、そう今を喜怒哀楽という波にときには支配されながら活きているのである。
また明日がある。たしかに明日は在るかもしれないが、その明日に自らは何処に在るのか…
それは今のお天気情報と等しく不確かな予報いや希望的観測でしかないのである。
私は昨年大きなヒキガエルと出逢い、ヒキガエルに「吉」と名付け大切に飼い始めた。
しかし数ヶ月後に「吉」は家であるミックスナッツの空き缶の上で空を見上げたままこの世を去り、この世でない何処かに産まれた。
私と「吉」との間には同じ時間が流れていて生命ということでは何ら変わりはない。たまたま私がコオロギを捕まえてきて餌にあげていただけである。今、新たなヒキガエルが私の拵えたテラリウムの中で快適そうに住んでいるが、もしかすると私もまた誰かが拵えた壮大なテラリウムの中で住んでいるのかもしれない。
だが私は「吉」の最期の時を先に知ることは出来なかった。もしかすると私の最期の時も同じように、誰も知らないのかもしれない。
いや知る術はないであろう。
なればなればである。
知りえないから解らないから予報が欲しいと秋にさえ似た今日の夜にセンチメンタルに思ったのである。
私がここからいつか消えてしまってもここはここのままで、この星は相も変わらず太陽の周りを月と共に廻っているのだろう。
そしてその隙間には夜には夜らしく星を連ね、昼には昼らしく雲を散らし風が何かを何処かへと運ぶように鳴くのだろう。




夢が夢であるならば
どうぞそのまま夢であれ
あなたがあなたであるように
私が私であるように
黒くも白くもあるような
そんな何処かと何処かの狭間で
廻る時間と刻の狭間で




おっと結局日付を跨いでしまいました!
やはり未来は不確かなもののようです。
今日の誕生花はアマリリス。
花言葉はおしゃべり…いや
私はおしゃべりではありませんが書くと長いかもしれません。
我が家にも5連の大きなアマリリスが咲き、
太陽に向かいます。何の明日も夢みることな
く、ただ一瞬の永遠を繋ぐために…



本田ちゃぼ

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