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□朱陽の姫と、翠月の君〜平安浪漫奇譚〜
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その男は人通りの絶えた暗い路を、やけにのんびりと歩いていた。
都の中枢を支えるその大きな通りは、昼で有れば多くの人々が行き交い、あちこちから物売りの声が絶える事無く活気に満ち溢れている。
しかしながらその半面、全てが闇に閉ざされるこの時刻。
都は『人為らざるモノ』――魑魅魍魎が群れを為し跋扈する、妖し達の世界へと変貌を遂げる。人々はただ恐れ戦き、お天道様が再び都を照らすまで家に篭り、息を潜めて過ごしていると言うのに。
その男は灯りさえも付けず、のんびりと一人歩いている。
黒と見紛うばかりの深緑の着流しに、ふわりと闇に浮かぶ白い羽織は、細かい文様の入った手間の掛かった品物だ。
一振りの刀を腰に下げてはいるが、持ち手の部分は優雅な曲線を描き、鍔には絹を用いた色鮮やかな飾り房が、男の歩く早さに併せ軽やかに揺れる。
とても護身用とは思えぬそれと同じく、男の風貌も強面とは程遠いものだった。

まるで今宵の月の様な、冴え冴えと光りを放つ金の髪。
すっと通った鼻筋、楽しげに細められた瞳は翡翠の色に輝いている。
柔らかく微笑んだ様を絵図に書き留めれば、恐らく多くの女性(にょしょう)が目を奪われるに違いない、そんな端正な容貌だ。
そして実際男は、何処かお目当ての場所へ向かうのか、実に嬉しそうな楽しげな笑みを口元に浮かべている。
果たして男の向かう先に、一軒の屋敷が居を構えていた。
夜だと言うのに煌々と灯りを掲げ、屋敷の出入口には屈強な男達が緊張の面持ちで番をしている。もっとも彼等が警護している人物の価値を考えれば、その態度も致し方あるまい。
現在この屋敷には、都では知らぬ者がいない程の高名な人物が住んでいる。

黒崎家の一の姫。
奇跡を起こす姫、巫女姫様と、世間では生き神様とまで称されている人物だ。
黒崎家は代々薬師の家柄で有り、特に当代当主・黒崎一心はその腕の良さと人柄から都の貴族達は勿論、一般庶民からも慕われていた。
『病人に身分無し』の信条の元、どんな相手にも真摯に応対する一心の態度には、帝すらも一目置いている。
そんな一心には三人の子供達がいるが、その長子が先に述べた一の姫だ。
この一の姫、幼少の頃より不思議な力を持っていると巷では有名であった。

見えない筈のモノが見え、聞こえぬ筈の声が聞こえ。

そして何時の頃からか、薬では直せぬ人々をその不思議な力で癒す様になったのだ。
奇妙な痣や瘤に苦しむ娘子や、睡魔に取り付かれ目覚めぬ幼児、陰陽師さえ手に余る奇病に苦しむ老人等、一の姫が救った人々は数知れず。
姫の奇跡を求めて、連日屋敷を訪れる人々は後を絶たない。
今や一の姫の存在は、この都の至宝と言っても過言では無いだろう。
当然その身辺に対する警護も物々しくなり、屈強な武人の他、陰陽師等の術者も借り出されている。
堅苦しい事の苦手な一心としては、この様な仰々しい様を心良くは思ってはいない。しかしながら帝よりも、一の姫の身辺に付いては万全を期す旨通達が有り、仕方なく…と言った態で有った。
そんな厳重に護られた屋敷の奥深くに、姫の住まう一角がある。
滅多に人前には姿を見せない一の姫だが、姫の容貌に関しては、目通りした者達(救われた人々)が次の様に語っている。


曰く、年の頃は十四、五才。
屋敷の奥深くで育てられた所為か、人見知りな面が有ると言う。
顔を見られるのが恥ずかしいのか、常に薄衣を纏い余り口を開く事は無い。
またその仕草は優美かつたおやかで、まるで天女の様で有ったとも聞く。何より人々に印象深いのは、姫の髪の色で有った。
その不思議な力を持つ由縁なのか、被り物から覗く一の姫の髪は常人とは違う――鮮やかな橙色を為していたと言う。

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