しのぶ

□わたしと水面は
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 あれはいつのころだったろうか。たぶん小学校ぐらいだったと思う。思う、と付くのはその記憶が実に古ぼけてしまっていて、あやふやだからだ。
よく一緒に遊んでいた男の子がいた。その子は小学校の同級生でもなく、親戚の子という訳でもなく。ただいつの間にか仲良くなった、そんな子だった。近くの林でよく出会ったその男の子とかくれんぼをしたり、意味もなく葉っぱを拾い集めたりとにかく楽しかったことは覚えている。ただ随分昔のことで彼の名前と顔はしっかりと霞がかかってしまったけれども。

「元気かなぁ…」

ある時期を境にぱったりと合わなくなってしまった彼との思い出に一人ふけていたのは昼食を食べて少ししたころ。随分と温く微睡んだセピア色の記憶は十二分に現実から意識を遠ざけていた。だからぼーっとしていた訳で、ぼーっとしていたから後ろから来るトラックに気が付かなかった訳で、これ以上ないくらい必死でよけたらその先が川だったのであって。

 そこから先の記憶は、ない。

「…ぃ。おーい」

まどろんだ意識の隙間から声が聞こえた。

「おーい、大丈夫か?生きてるかー?」

返事しろよーと間延びした声がする方に顔を向けると男の人がいた。男の人というよりも少年と表すべきかもしれない様な年に見える。たぶん年のくらいならわたしとたいして違わない。わしゃわしゃもさもさの髪が周囲にびっしりと生えているアシと同じ様に西日を浴びて存在感を際立てていた。その男の子はわしゃっとした大量の髪を後ろにひとつでまとめ、深緑の甚平?着物?をまとっている。大柄で精悍な鼻筋だけれどもそこまで威圧感がないのはひとえに彼のくりくりした瞳が妙に可愛らしいからだと思う。

「…ええと、近くないですかね…?」
「それは私が抱っこしているからな!」

そう、私は彼に抱えられている。びしょ濡れで、今も髪からは滴がぽたぽたと垂れていた。着込んだブレザーもしっかりと水を吸いなんだか生臭い。

「何で池に浮いてたんだ?水泳するにしてはちょっと時期が早くないか?」

寒中水泳なのか?と矢継ぎ早に質問をされる。そういえばさっきから寒かったわけだ。幸か不幸か彼が抱っこをしてくれているからそこまで寒いと感じなかった。抱えられているからこそ分かる彼の体躯はがっしりとして骨太だ。背も高い。

「寒中水泳をしたかったんじゃなくて…」

歩いていたら、トラックに轢かれそうになって慌ててよけたら躓いて、転んで、転んだ先が池だった。そして気づけば日が傾いている、いったいわたしは何時間池でどんぶらこしていたのか。この何とも不幸な珍事を見知らずの少年に愚痴交じりに話すと「まるで伊作みたいだ!」と笑われた。『いさく』君は彼の友達だろうか?

「あの、そろそろ…離していただけないでしょーかね…」
「何で?」
「何でって…迷惑になっちゃうし…さすがにこれはちょっと…なので…」
「いいじゃん別に。」

よくはない。

「ほらあなたまで余計に濡れちゃうし、」
「もう濡れ鼠だ!」

私も池に入ったからな!とからりとした笑顔で答えられる。てっきり私を抱えたから濡れたものだと思い込んでいたのだけれどもよく考えたら彼が救助したのだから私と状態は一緒だった。

「それに私は七松小平太だ!」
「…ごめんなさい、ええと、七松君までびしょびしょにしちゃって。助けてくれてありがとう。」

もう大丈夫だからとの意味を込めて少しばかり彼の肩を押す。お願いします近いです、そろそろ恥ずかしくて脳か沸騰しそうになるので離してください。体躯に似合うしっかりとした分厚い肩はびくともしなかったが意味は伝わったらしい。

「何、気にするな!」

意味は伝わったがそれにならってくれる気はさらさらないらしい。何故。

「そういえば何て呼べばいい?」
「あ、わたし小此木千尋。」
「ん!じゃあ行くか千尋。」

フレンドリーに名前を呼んでくる七松君はよいしょ、と私を抱え直すと西日に背を向けた。ほんのり湿ったわさっとした髪が振り向いた反動でなびく。ライオンの鬣(たてがみ)みたいだとほんのりと現実逃避をしてしばらくして、ハッと我に帰った。

「自分で歩くから降ろして降ろして…!」
「えー…いいじゃないか。それにこっちの方が早いし?」

多少重くても平気だぞ、鍛えてるからな私。との台詞はこの際無視をして七松君の顔を再び見上げた。

「はやい?」
「おお。着物濡れてしまったし、着替えなら早い方がいいだろ。」
「いいよいいよ、着替えならうちに帰るし。その方が手間かけないし…。そもそもどこに行くの?」
「忍術学園。」

私が住んでる所だ、本当は秘密なんだけどな、いやしかし他にいいトコ知らないし。このままだと風邪引いちゃうしな。とこともなげに言い、私を横に抱えたまま屈伸運動を何回かする。

「…もうきたのか…」
「へ?」

今、何か呟いた気がしたのだがよく聞き取れなかった。それに今何か違和感が。

「ようし行くぞ糸子!」
「だからにんじゅつ学園って何?そしてどこ?」

わたしは家に帰りたいんだけれどもとぺしぺしと膝裏に回された七松君の手を叩いてみたのだが。


「落っことすヘマなんてしないけど、しっかりつかまっていろよ。」

 ここで屈伸運動した理由が判った。七松君がぐんっと反動をつけたまま足に力を入れて一歩前進する。そのたった一歩でトップスピード(だろうたぶん)に到達する。物凄い速さでぐんぐんと前に前にと進んでいた。

「はやいはやい!」

落ちる落ちる!と慌てふためき半泣きで七松君にしがみつけば、彼はご機嫌となり更にスピードを上げる。

「千尋大胆だなぁ。全く嬉しい限りだ!」
「へえぇぇっ!?」

わたしの心音と比例して、七松君の機嫌も速度もうなぎ上りだ。一体彼の限界はどこにあるのだろうか。そろそろ彼が人間だと信じられなくなってくる。

「たすけてぇぇー!!」
「いけいけどんどーん!」

 ああ、家からわたしは遠ざかる。


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