李典とは
- 管理人のメモ的な覚書 -




資料より
【演義】
・曹操挙兵の際《190年》に配下に加わる

【正史】
・享年36歳。
 ⇒合肥の戦い《215年》に参加している事を考えると180年代生まれ、曹丕や孫権と同じ世代。曹操に従ったのは従父・李乾、その死後は李乾の子・李整が継ぎ、更にその後を継いだ。演義ではこの3人が1人の“李典”として描かれている。

・諸将と功績を争わず、自分を『グズでノロマ』と卑下する謙虚な若い将軍。でも張遼はキライ。

・軍事を好まず、学問を好んだ。師について『春秋左氏伝』を読み、種々の書を見たのを曹操に買われ潁陰の県令(文官)に任じられる。この時、20歳そこそこ(もしかしたら10代後半)。

・山陽の大豪族でありながら、一族郎党約一万人をギョウに移住させる。
 ⇒古参の李家が土地を離れ都に本拠を移した事により、曹操への忠節を示す為に他の豪族も競う様に都へ移住した。これが歴史上に“貴族”という階級を生み出す要因のひとつになり、後に支配階級が“豪族”から“貴族”へ移り変わっていったとも言われているそうです。

・諡は『愍候』。
 ⇒詳細は不明ですが他に“愍”の付く方々(夏侯淵、曹昴)から考えるに戦場で亡くなったと思われ…戦嫌いなのに。“愍”は国難にあった人につけられる字。

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民間伝承+妄想
【李典殿とご先祖様】
李典殿のお墓は故郷以外にも合肥の紫蓬山にもあるのですが、この紫蓬山の別名は『李陵山』と言うそうです。紫蓬山の観光案内に、李典が七代前の『李陵』を祀った廟を建てた事に由来するとありました。
李陵ってさ…!
漢の武帝の命で北征の軍を率いるも、奮闘虚しく匈奴に囚われた悲運の将軍。誤解から、帝に母・妻子・弟に至るまで殺されてしまう。漢と匈奴の間で苦悩し続け、後年は迎えの使者を敢えて断り、李陵は最期まで漢へ帰らなかったそうです。
※司馬遷が宮刑に処されたのは李陵を武帝に弁護した為。ちなみにこの二人は友人でもなんでもありません。
また、李陵の祖父にして育ての親は李広。飛将軍と称される弓の名人。対匈奴との戦いで度々大功を挙げながらも恩賞はなく、清廉な人柄から清貧に甘んじた人。最期は高齢を理由に望まず後方へ回された戦で案内もなく戦地へ向かい、大将軍・衛青の部下から到着の遅れを咎められ(衛青は咎めなかった)、憤りの末に陣中で自らの首を刎ねたそうです。
なんか不幸の香りしかしない一族ですね。
そんな経緯を思えば、李典殿ひいては李家の漢朝への忠誠は低そうですね。
ちなみに、唐の詩仙・李白は李陵の末裔を自称していたそうです。
※ちなみに唐の詩聖・杜甫は司馬懿の娘婿・杜預の後裔。でも杜甫本人は諸葛亮ファン。


【満寵様と李典殿】
演義・正史共に目立つ接点のない李典殿と満寵様ですが二人は仲良しだと思います。
二人とも山陽郡出身。
李典殿が潁陰の令をやっていた時、満寵様は隣で許の令を務めていました。
(以下、妄想補完)
潁陰の令になって頑張る李典殿に、十八歳で役人になったものの嫌気が差した末にドロップアウトした満寵様は胸がキュンとしていれば良い。面倒見が良かった満寵様(任地異動の際、住民がついて行きたいと志願した【正史】)だから、若くして一族まで背負う事になった李典殿をあれこれ世話焼いてそう…過保護希望。
李家もぼちぼち問題ありそうだし(ex.李朔←満寵様が役人時代が取り締まった相手。郡内に私兵を抱え暴れまわったとされる人)
でも、他人に頼らず自分で問題解決の為に努力する李典殿。その姿に胸をキュンキュンさせてればいい。可愛い弟分的な意味で。
・鉅野に『李典試剣石』という石があるそうです。鉄を削り玉を断つ事ができる宝剣を拾った李典殿が、それを満寵様へ自慢しに行き岩を切ってその威力を証明した…ってなエピソードがあるらしいです。
大きな石が真っ二つ。
拾った…しかも、わざわざ見せに行ったのか…まだまだ子供だな李典殿w
…なるほど、だから李典殿は博望も合肥も、元文官の細腕将軍なのに乗りきれたのね♪(違。
相手が誰であろうと、自分が正しいと思った事は遠慮なく主張する似た者同士。そんな二人は仲良しなんだと信じてやまないマイナー推進派の独り言。


【純くんと典ちゃん】
学問好きで、若くして一族を切り盛りする……あ、正史における曹純殿の伝にある注釈です。李典殿じゃありませんよ、あしからず。
境遇とか性格とかが似てる気がする、この二人。
普段は沈着冷静、勝機を見出だせば勇猛果敢に軍を動かす戦い方までそっくり。
若くして一族を纏める苦労も分かってる弟(純くん14歳で父を亡くした時、実兄・曹仁は別居中。家督は純くんが継いだ)。
そんな弟は李典殿と仲良さげだな、むしろ仲良くあれば美味しい。
そして、この弟は曹仁兄上も李典殿も大切。だからそっと見守る紳士であれば良いですね。
これに根拠はありませんが!

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