ハコニワノカケラ
□告 白
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告白
- 緑衣黄裳 心之憂矣 曷維其亡 -
残暑厳しい日差しの中に陽炎が立ち上る。やがて大気揺らめくその向こう側に鮮やかな緑が現れた。
俺を出迎えたのは緑の衣を身に纏う若く美しい女。
「曹将軍、曼成殿がお待ちです。こちらへ…」
来意を告げる前に、凛とした声が俺の名を呼び、優雅に翻された袖が俺を誘った。その袖からは李典と同じ香りがする。その所為か、この足は誘われるがままに女の後を追って屋敷の門をくぐった。
ふと女の背中を見ながら考える。
この屋敷で当主である李典を字で呼べる女など数えるほどしかいない。それなら一度は会った事があるはずなのに、女の顔はその誰とも一致しなかった。それどころか今は女の顔が思い出せない。儚げで美しいはずの若い女は、途端ひどく曖昧な存在へと変わる。
(一体、誰だというんだ…この女は?)
外の喧騒とかけ離れた静けさの中、遠い蝉の声と笹の葉が風に揺れる音だけが響いていた。
「将軍、本日のご用向きはなんでしょうか?」
振り返りもせず、女が今さらな質問を投げ掛ける。
「大した用ではない。ただ…」
「ただ?」
「曼成が病で臥せっていると聞いてな…」
「だから、わざわざ手土産まで携えてここにいらしたと?」
「……あぁ」
素直に白状してしまえば、鈴を転がす様な澄んだ声で女は笑った。
「この香り…籠の中身は桃ですか」
「そうだ。昔からアレは臥せると果物しか口にせん」
「よくご存知で」
「長い付き合いだ。さすがに覚える」
もう一度、今度は少し含みを持たせて女は笑う。それに敢えて問うことはせず、黙って女の背を追った。
ずいぶん歩いたというのに、まだ李典のいる房が見えてこない。屋敷内の配置から考えれば、もう着いても良いだけの時が経っているというのに。
先代の妻子に配慮してか、李典は当主でありながら屋敷の中でも離れに居を構えていた。しかし、何度も通った場所なのに、今日に限って見慣れない道を通っている。
だからこそ案内人である女の機嫌を損ねて厄介事を起こしたくなかった。早く李典の顔が見たい一念で抱いた疑念を圧し殺す。
「将軍は曼成殿をどう思ってらっしゃるのです?」
突然振り返った女の真っ直ぐな視線が俺を射抜いた。顔立ちは全く似ていないのに、女の纏う雰囲気はどこか李典と似ている。
「は?」
「本気でその想いに応えるおつもりですか?」
「あぁ、当たり前だろう。だからなんだと言うんだ?」
当人がいないからか、自然と口を衝いたのは己の本心に他ならない。女は驚いた様に目を見開き、やがて小さく顎を引いて頷いた。
「まぁ悔しい……けれど、羨ましい」
「何がだ?」
俺の問いに答えず、女は言葉を重ねる。
「ここは彼岸と此岸の“狭間”。人が偽りを紡げない、その魂の在り様を示す場所。将軍が遊びで曼成殿を弄ぶだけなら、このまま此処に閉じ込めてしまおうと思ったのに!…嗚呼、妬ましいが羨ましい。ずっと知ってはいたけれど、やはり将軍には敵わない。分かっています、分かっているのです!それでも、妾(わたし)は……」
言葉を紡ぐ度に、女の瞳には仄暗い情念が焔の様に揺らめいた。
「…なに!?」
「曼成殿は病ではありません。妾は曼成殿に憑いた幽鬼、この身の発する瘴気が曼成殿の生気を奪うのです…」
いつの間にか俺が手にしていたはずの籠を抱え、女は独り笑っていた。
「“桃の夭夭たる 灼灼たり其の華”……でも貴方は妾を見ていない」
もうその目に俺は映っていない。籠から取り出した桃を片手に凄艶な笑みを浮かべ、女は緑の袖を舞うように揺らす。
「“桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子 于に帰(とつ)ぐ 其の室家に宜しからん”……曼成殿、曼成殿…あぁ恨めしい」
切なげにその名を呼んで、女は歌い続けた。
「“桃の夭夭たる 灼灼たり其の華”………それでも、貴方をお慕いしておりました」
叶わぬ想いを諦めきれず、抑えようとしても溢れ出す感情が胸を焦がす。そうやって足掻く姿が過去の己と重なった。
「恋狂うなど愚かで憐れなものだな……そなたも、俺も」
分かっていても妬ましいのだ。
過去の俺は李典の妻となる女が、幽鬼の女は今を李典と共に生きる俺が。
ふと視線を感じて顔を上げれば、籠を抱えた女が真っ直ぐに俺を見ていた。
「妾は将軍を恨み妬んでいるのですよ。それを憐れむと?」
「“人は死してひとたび去れば何れの時にか帰らん”、そなたに未来(さき)などない。ハナからアレを譲ってやる気などないがな」
女の黒曜石の瞳に不遜に笑う俺が映る。狂気はなりを潜め、女はふわりと微笑った。
「なんて傲慢で酷い人……でも将軍はそういう男…だからこそ曼成殿を任せられるというもの」
穏やかに告げる女の声と共に、視界がぐにゃりと音を立てて歪む。
「恋狂うのも生きていればこそ、と?……ならばせいぜい狂うが良い、曹子孝」
そして女の低い笑い声が響き、一際甘やかな桃の香りが俺の意識を包み込んだ。
………………
気がつけば見慣れた天井があった。薄暗いが、そこは通い慣れた李典の部屋。
(白昼夢…か)
この部屋の空気はかなり重く澱んでいた。これでは治る病も治らない。
閉ざされた窓へ向かい大きく開け放った。
部屋に光が満ち、新しい風が入ってくる。
ふと気配を感じて振り返れば、女物の衣が置かれていた。先ほどの女が着ていた緑の衣とよく似ている。手に取ろうとすれば、まるで意志を持つかの様にひらりと宙を舞った。伸ばした手の指先をすり抜けて、衣は窓の外に消える。
「子…孝…ど…の?」
後ろから俺の名を呼ぶ声がした。目覚めたばかりなのか、その声はどこか弱々しい。急いで寝台の横へ行き、側に膝を付いてその手を両手で握る。
「ここにいる」
「……ここにあった衣を知りませんか?緑の衣なんですが」
ゆっくりと上半身を起こした李典が周囲を見回した。力なく倒れそうになるその身体を慌てて支える。
「すまん。先ほど窓を開けた際に、外へ…。そんなに大切な物だったのか?」
「亡き妻の形見です」
苦しげに眉を寄せる李典の瞳から涙がひとつ流れて落ちた。弱った身体は心をも脆く壊れやすくする。
「李典は決して良い夫ではありませんでした……」
ゆっくりと頬を撫でて、その身を寝台に横たえさせた。
「いくら悔やんでも死者は戻らん」
慰める様な言葉の出処は“嫉妬”に他ならない。
李典の中で女はまだ“生きて”いた。
ただ李典だけを想い、狂気と愛憎の中で揺れる美しい女。その姿を思い出し、苦い感情が胸に広がった。
「妻は誰よりも李典を愛してくれました…」
「そうか…」
「それなのに李典は妻に応えられなかった。…妻というものがありながら、心の中では貴方をお慕いしていたのです…」
絞り出す様に李典は一人言葉を続ける。その姿は己の罪を告白する咎人に似ていた。
「気付いていたのに…妻は李典を責めなかった…」
視線を伏せた李典が両手で顔を覆う。
李典は誠実で、そして同時に不器用だった。だからこそ、ずっと己を責めてきたのだろう。辛そうに歪む横顔に、改めて自分に向けられる想いの深さを思い知らされる。
(あぁ…俺はこんなにも想われていたのか)
身の中から溢れ出す愛しさに息苦しさすら感じた。手を伸ばし、指の背でその頬に触れる。
「お前を誰にも渡す気はない。例えお前が望んだとしても、だ」
弾かれた様に李典が顔を上げた。
「だからお前は俺の傍で俺だけを見ていれば良い。分かったか?」
間近で見れば、ただでさえ華奢だった身体が更に細くなっている事に気付く。
「李典はこのまま子孝殿のお側にいても良いのでしょうか…」
小さな声が自問自答を繰り返す。李典の震える肩に腕を廻し、そっと胸に抱き寄せた。
「当たり前だ」
耳元に口を寄せ、その身を離さない様に強く抱き締める。
「…ごめんなさい…」
やがて腕の中から小さく「さよなら」と呟く声が聞こえた。それは過去に、あの女に別れを告げた様にも聞こえる。
それでも目の前で流される涙に掛ける言葉が見つからない。
仕方なく、ただ黙って頬を伝う涙に唇を寄せた。その涙はあの女と同じく仄かな白檀の香りがする。
どれだけ傍にいれば、香りはこの身に移るのか…。纏う香りが同じなら、言わずともお前は俺のものと分かるのに。
愛しい人を腕に閉じ込めて、ふとそんな事を思った。
【了】
緑兮衣兮 緑衣黄裳
心之憂矣 曷維其亡
『緑衣』(『詩経』ハイ風より)
《貴女の形見たる緑の上衣/部屋に留めて見る度に貴女を思う/秋風の吹く頃となるも/形見の衣を収めてしまうには忍びない》
薤上露 何易晞
露晞明朝更復落 人死一去何時歸
『薤露』(古楽府より)
《ニラの葉に下りた露は瞬く間に乾いてしまう/乾いた露も明日の朝にはまた結ぶが、人は一度死ねば二度とは戻らない》
■泉鏡花的さむしんぐ玉砕orz
………………
↓オマケ:その時の李典妻↓
夏の名残を色濃く留める眩い日差しの中を、緑の衣がゆっくりと天から降ってくる。
両手を差し伸べて、呂虔は衣を丁寧に抱き止めた。
「“桃の夭夭たる 灼灼たり其の華”…」
「…子恪殿、曹将軍に桃を持たせたのはやはり貴殿でしたか」
穏やかに微笑む呂虔に、溜め息混じりの声が投げつけられる。腕の中の衣はいつの間にか籠を抱いた若い女の姿に変わっていた。
「はい。懐かしいでしょう?」
「えぇ…私が嫁ぐ際も皆が唄ってくれました」
「思い出して下されば結構。曹将軍もやればできるものですね。貴女を正気に戻し、泰山府君の使者たる私の前に連れて来てくださるなんて」
女を地面に下ろし、呂虔は悪びれもせず己の差し金と認める。
一方の女もなにかが吹っ切れたのか、晴れやかな面持ちをしていた。
「貴女を此岸に縛り付けていたのは曼成の抱いた後悔。貴女を狂わせたのは曼成への愛情。とはいえ曼成や曹将軍を手にかけなかった今なら冥府で咎められる事はないでしょう」
「でも、此所に留め置かれた事が妾には嬉しかった…どんな形であれ、夫が妾を想ってくれての事なのですから。でもこうして妾が貴殿の前にいるという事は、ようやく夫も妾を過去の者と区切りをつけたのですね」
少し寂しげに笑う女に、何も答えず呂虔は改めて手を差し出す。女はその手の上に自分の手を重ねた。
「ねぇ子恪殿、もう一度“桃夭”を聞かせてくださいません?」
「お安いご用ですよ」
呂虔は柔らかく微笑む。そして東を指差した。
「泰山への道を開きました。一人で逝けますか?」
「えぇ、この身は死者でございます。逝く道は存じておりますよ」
女はそっと呂虔の手を離し、艶やかに笑う。
そして一歩距離をとった女は深く礼をして、指し示す方に歩いていった。やがて、陽炎がゆらめく様にその後ろ姿がひっそりと消えてゆく。
「“桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子 于に帰(とつ)ぐ 其の室家に宜しからん”…」
その様子を見守りながら、泰山府君の使者は約束通り“桃夭”を唄い続けた。
【了】