ハコニワノカケラ

□月  出
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月出
- 月出皎兮 佼人僚兮 -




しゃらりしゃらり…
琴の調べが響いていた。
月明かりはゆっくりと地上へ降ってくる。
光は音と溶け合い、美しい残響となって密やかに闇夜へと消えてゆく。
その儚い気配を愛でる様に曹仁は一人杯を傾けた。
不意に琴の音が止む。
見上げれば、窓辺に呆れた果てたと言わんばかりの表情を浮かべた李典が立っていた。その出で立ちは艶やかな黒髪を脇に流して軽く留め、寝着に軽く上着を羽織っただけというもの。こんな夜更けに人が訪ねて来るなど思ってもいなかったのだろう。さすがに自分が悪いと思ったのか、曹仁はバツが悪そうに視線を空に戻した。

「この様なところで何をしておられるのですか」

「琴の音と月を肴に…な」

手にした杯を見せれば軽い溜め息が漏れ聞こえる。

「お止めください。変な噂が立ちますよ」

「お前とならば俺は構わん…」

杯に揺らぐ月を眺めながら、曹仁は李典の言葉を待った。
小言の二つや三つは覚悟している。ただ、今夜は本心を偽る気にはなれなかった。
しかし、いつまでたっても李典の小言は聞こえてこない。
違和感を感じて曹仁が振り返れば、窓辺に李典の姿はなかった。

「曼成…」

その名を呼ぶ声は辺りを包む静寂に消えてゆく。月明かりの下に曹仁一人が残された。
手にした杯を煽り、一気に酒を飲み干す。常に冷静な李典からは呆れられても仕方ないと分かっていた。それでもこの思いを受け止めて欲しいと望む己はあたかも初心の若者の様だとも自覚している。
分かっていても胸の辺りが少し痛んだ。
気弱になる己の心を酒のせいにして、曹仁は立ち上がる。離れとはいえ、これ以上他人の屋敷へ勝手に居座るのは憚られた。
ぽすっ
軽く何かが当たる音がして、背中から人の温もりが伝わってくる。
懸命に走ってきたのだろう、その呼吸はまだ荒いままだった。

「曼成?」

名を呼べども返事はなく、腰に回された腕が強く曹仁を抱き締めるだけ。

「月があまりに美しいと人恋しくなる。なぁ…もう一度弾いてくれるか?お前の琴が聞きたい」

「貴方は狡い人ですね…」

半分怒った様に李典が呟く。それでもその腕は曹仁を離す事はなかった。

虫の音も絶えた晩秋の夜、青白い月の光の中を琴の調べがゆるやかに漂う。
それを聞くのは曹仁ただ一人。
李典の指から紡がれる音色は耳に心地好い。そう思うのは夜毎に紡がれる密やかな睦言に似ているからかもしれない。
詮なき思案に浸りつつ、愛しい人の傍らで曹仁は一人杯を傾けた。

【了】
月出皎兮 佼人僚兮
舒窈糾兮 労心悄兮
 『月出(詩経・国風:陳風)』より
《月は真白に輝き、よき人はかくも美しい。嗚呼すらりとしたその麗しき姿よ。想いを告げられぬ心は憂えるばかり》

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