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□桃誕 過去拍手 「春の名前」
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女は自分の名前は桃だと名乗った。
こいつの纏う雰囲気によくあった暖かな名前だと思った。
桃は俺が水汲みに行くといつも現われた。どこからか現われて、俺が持っていた、水のたくさん入った桶を軽々と持ち上げる。
「おい!返せよ!」
俺は少しばかり小柄だけれど、力には自信があるんだ。
女に、しかもこんな細い身体の桃に助けられなくても運べる。
けれど桃は俺の伸ばした手をひょい、と避けて笑うのだ。
「いいからいいから。こんなのちょろいちょろい。」
そう言って、重いはずの桶を持ったまま、クルリと回ってみせた。
本当にちょろそうだな、おい。どんな怪力だよ、お前。
「ねぇ今日、畑仕事が終わったら遊ぼうよ。」
「いやだ。それに仕事は一日中だ。終わる時は帰る時だ。」
「ええ!そんなのやだ!遊ぼうよ!」
タプン、と桶の中の水がはねる。
「おい、こぼすなよ。」
「むー、シロちゃんが遊んでくれなきゃ、この水捨てるから。」
「あ、こら!水は貴重なんだぞ、やめろ!」
桶を掲げるように持ちあげた桃を慌てて止めた。
水は大切だ。特に梅雨に入る前の今みたいな季節は少しの日照りで、すぐに水不足に陥ってしまう。
「じゃあ遊ぶ?」
「………少しだけだぞ。」
俺がしぶしぶ頷くと、桃は弾けるような笑顔になった。
「わあい!じゃあ早く遊べるように、お仕事早く片付けようよ!」
嬉しそうに駆け出した桃に俺は苦笑する。
子犬みてぇなやつ。
………そういえば、笑ったのなんか久しぶりだ。
着物の裾をひらひらさせて、走って行く桃の背を見て呟いた。
どうも桃といると調子が狂う。
「…って、桃、危なーー」
「きゃああぁ!」
桃の叫び声と共に桶が舞った。
「あ………。」
転がる桶。
撒き散らされた水。
地面にペッタリと張り付いた桃。
「おい!大丈夫か!?」
俺は慌てて駆け寄った。
桃は寝そべったまま動かない。
「桃、どう「う…、うわーーん!!」
「あの、」
「いたいよー!!わあーーん!!!」
のけ反ってしまった、盛大な泣き声に。
桃は地面に腹ばいになったまま、臆面もなく、わんわん泣き喚く。
まるっきりガキにしか見えなくて、俺は右手を出し泣きわめく桃の横に膝をついて起こしてやる。
「うえぇ…、足、痛い。………痛いよぉ。」
起き上がり、足を投げ出した桃の顔は涙でグシャグシャだ。見れば膝小僧から血が出てる。転んだ場所が悪かったのか、転び方が悪かったのか、けっこう出血していて。
「ちょっと待ってろ。」
泣きつづける桃にそう言って、俺は血止めの薬草がないか近くの草むらに目を走らせた。
そこら辺の道端に生えている血止めの薬草は直ぐに見つかり俺はそれを掌で揉み潰して桃の傷口にあてがう。
「いっ………た。」
「痛くねぇ。我慢しろ。」
漸く落ち着いてきたらしい桃は、傷口に薬草をあてる俺の手をジッと見つめてる。
俺は腰につけていた手拭を取り、薬草ごと桃の膝小僧に巻き付けた。
「痛むか?」
「少し………。」
「うちに帰ったら水で洗ってきれいに手当てしてやるから。それまで我慢しろ。」
俺の言ったことに桃は素直に頭を振って頷く。
彼女の目尻に張り付いていた最後の雫が一つ、こぼれて落ちた。
俺は桃の手をひいて立たせ、転がっていった桶を拾う。
「…ごめんなさい、お水。………大事なのに。」
一度ひいた涙が再び浮かび上がる。
「また汲めば済む。」
「……ありがとう。」
俺は片手に空っぽの桶、もう片方の手に桃の手を掴んで家に向かう。
久しぶりに触れた人の手は水で冷たくなっていたけれど、とても柔らい感触を俺にくれた。
「…転ぶと痛いね。」
ぽつりと桃が言った。
「痛いと血が出るんだね。あ、違うか、血が出るから痛いのか。」
繋いだ手はそのままに桃がああだこうだと首をひねる。
「何言ってんだ。当たり前だろ、そんなこと。」
「えへへ。そうだね。」
笑った顔はどこかぎこちなくて、
やっぱりどこか変なやつ。