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□210000h感謝小話「五月雨」
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*桃
マンションの狭いロビーに立った桃の後ろで雨足が僅かに強くなった。
別れる時、冬獅郎が持たせてくれた透明傘の先端からポタポタと雫が垂れるのを桃は見るとはなしに見つめていた。まだ頬が熱い。
ほんの数時間前には冬獅郎の温もりの中にいたのだ。それを思い出して、桃は誰もいないのに両手でさっと顔を隠す。わーっと叫んでせり上がる何かを逃したい。
桃と冬獅郎の初めては、今夜だった。彼の様子が時々おかしいことに気がついたのは少し前。急に慌てたり何かを堪える顔をしたり諦めの表情だったり。それがなんなのか解らなくて不安になったりもしたけれど、我慢してくれているのだと、やっと最近理解した。もっとも、その答えに行き着くには経験豊富な友人の助言があればこそ、なのだが。
だから今日、冬獅郎の部屋で彼に求められた時、桃は驚きも抵抗もしなかった。これ以上冬獅郎に辛そうな顔をさせるのは嫌だったし、その原因が桃のためだというのが嬉しかった。それに桃ももっと冬獅郎と深い繋がりが欲しいと、ただそばにいるだけじゃ収まらない何かを抱えていた。
いつもより軽めのキスをしたあと、間近で互いの瞳を合わせた瞬間、冬獅郎は桃を引き寄せ再び唇を重ねてきた。急に深みを増したキスに驚いて、思わず桃の身体がビクッと跳ねた。反応した桃の身体が逃げないように、冬獅郎は桃の背中に手を回し、後頭部も押さえ、桃の口内を暴れ回った。
頬の熱さが取れない。蒸し暑い気さえしてくる。
エレベーター前に敷かれているマットの上に傘から落ちた水滴が黒い染みをつけていく。雨が強くなっていないか心配だ。マンション近くまで送ってくれた冬獅郎は、部屋に上がっていかないかという桃の誘いを断って、一本しかない傘を桃に押しつけて帰って行った。
ふぅ、と熱い溜め息をつきながら、桃はエレベーターのボタンを押した。最上階にあるエレベーターが下降を始める。
情事が終わった後で帰ると言った桃を冬獅郎はなんと思っただろう。いつまでもずるずると居座る女になりたくなかったから彼の腕から離れたけれど、名残惜しくないわけはなかった。朝まで冬獅郎と共に過ごせたらどんなに幸せな気分になるだろう。
帰ると言って先に別れを切り出したのは桃なのに、いざ別れ道に立った時、冬獅郎の手をどうしても離せなかった。
優しく桃の髪を撫でてくれた冬獅郎をもっと独り占めしたくて、渾身の思いをこめて我が儘を言ったけれど、冬獅郎は乗ってきてはくれなかった。
部屋に上がっていかないか、と離れたくない、は同じ意味だ。恥ずかしさで俯いてしまった桃の上で冬獅郎が、ふ、と笑った音がした。ゆっくり顔を上げたら困った表情で冬獅郎が笑ってて、桃の恥ずかしさは頂点にまでのぼってしまった。
だらだらと、しつこい女にはなりたくなかったのに、つい言ってしまった言葉を桃は後悔した。そんな桃に冬獅郎は優しく頭に手を置き、明日は早いんだろ、と諭すように言い、小雨の中、走って行った。
なんでしつこく誘ってしまったんだろう。答えはもっと一緒にいたいから。
我が儘だとわかっていたが、言わずにはいられなかった。今もこんなにも掌が寂しいと言っている。
エントランスの向こうで雨が一段と激しい音をたてだした。ポン、と軽い音を鳴らしてエレベーターが桃の前で開いた。
もしかして濡れているかも。
そう思った瞬間、桃の身体は傘を持って動き出した。
冬獅郎は足が長くて歩くのが早いから、きっともういないだろう。だってさっき別れた時、彼は走って桃の前からいなくなったのだから。けれど、でも…。
無駄足でもいい、そう思って桃は雨の中、傘をさして小走りに走った。服が湿り、足元も濡れていくけど知らんぷりをする。この冷たさが逆に今は気持ち良かった。逆上せた頭を冷やすにはちょうどいい。
きっと桃の大好きな冬獅郎は、とっくにいない。追いつくなんてこと、よほどの足止めがない限り有り得ない。
でも……。
足が止まらない理由がわからないまま、桃は水たまりを踏みつけた。