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□40000h感謝小説『流れはとどまることなく』
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夜も更け、あとは眠るだけ、と布団を整えていたあたしの部屋の戸が、静かな音だけをさせて開かれた。
「雛森……もう寝るのか…?」
戸口での声掛けもない。もう彼にとって、この部屋は自分の部屋と同じなんだろうか。
「シロちゃん、今までお仕事だったの?」
あたしが振り返った先には疲れた顔の幼馴染みが既に歩み寄って来ていた。
「まあな。今日は疲れた…。」
吐き出された息と共に布団の横に膝をつくあたしを後ろから抱き締める。
彼の唇が項にあたる。
柔らかな唇を押し付けられてる。
「ご飯まだでしょ?何か作るね。」
回された彼の腕にそっと手を触れて食事の用意をしようと脱出を試みるが、顔を隠した彼はギュッ、と腕の力を強め、あたしを更に閉じ込めるのだ。
「飯ならもう食った。」
「じゃあ、お風呂に入ってもう寝る?」
「…ああ……。」
あたしの項に唇をつけたまま、シロちゃんは大きく息を吸って吐いた。
あの激しい戦いの後、あたし達に残ったのは世界の平穏と崩壊しそうな心と身体。
時は無情なまでに全てを通常に戻そうと流れを緩めない。
吉良君も檜佐木さんも乱菊さんも、それぞれが痛みを抱えている。表面上は明るい彼等だけれど見えない傷跡はまだ残っているに違いない。日常に戻った風を装いながらゆっくりと時が昇華してくれるのを待っているのだ。
「着替え、用意しておくから入ってきて?」
あたしとシロちゃんもそう。
互いの顔を見るのも辛くてぎこちない笑みしか交わせなかった。
催眠状態だった彼があたしの身体を貫いた現実を、シロちゃんはきっと一生引きずるのだろう。あたしがどんなに、千回も万回も、気にしていない大丈夫だと繰り返しても彼は痛みをこらえた瞳を優しさで隠してあたしを見る。
裏切られ騙され利用された過去は確かにあたしの中で深い傷として残っているが、それよりも薄れた意識の中で聞いた彼の悲痛なまでの絶叫が色濃く残っている。
人の口から出た声だとは思えないほどの叫びは世界の崩壊を連想させた。
あたしの身体に回していた腕を緩め、ゆっくりとシロちゃんが立ち上がる。白い羽織もそれに合わせて震えるように揺れた。
「入ってくる…。」
「うん、また湯船の中で寝ちゃダメだよ。」
「うるせぇ。」
少しおどけていったら鼻を摘まれた。
あたし以上に深い傷を負った彼を見るのが辛かった。そんなあたしを見て更に彼が傷付いて。
繰り返される傷の付けあいは戦いが終わってもなお続いていく拷問のようで。
あたし達は出口が見出だせなかった。
あたしと彼の時間だけが行き止まりの淵にはまりこんでいた。
シロちゃんがあたしを見る。
罪悪感に苛まれた瞳を隠して。
そんな彼を見るのに耐えられなくて徐々に足が彼の元から遠のいた。
だってあたしがいれば彼が辛い思いをする。
体のいい理由をつけてあたしは逃げたかっただけ。
あの優しく向けられる翡翠に傷ついた心が潜んでいると知っていたから。
あたしを呼ぶ声に震えるほどの愛を感じたから。
でもあたしは何もできないから。
とても悲しくて嬉しくて、その二つを上手く同居させられなかったあたしは彼から離れた。
そう、逃げたのだ。
あたしに向けてくれるシロちゃんの気持ちがとても嬉しかった。彼の心に応えたいと思った。だってあたしも彼のことがとても大切だったから。
何も考えずに抱き合うことができればいいのに、二人の心に巣くった罪の意識が前へ進まぬよう足を絡めとっていく。
会いたくて、触れたくて。
けれど手を伸ばすのが怖くて。
もうこのまま、幼馴染みという名前だけを残してシロちゃんとあたしは疎遠になっていくんだと覚悟した。
そうやってたくさんの時を使っていけば傷跡を残しながらも痛みは消える。愛しい気持ちを育てるよりも痛みをとり除くことを選んだ。