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□250000h感謝小話「大人の眼差し」
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*原作日雛












鏡に向かっていた桃が突然嘆きの声をあげた。そして「あぁ、もう」と困り切った顔をして俺の方へと振り向く。その目が訴えるものに俺は読みかけの本を置いた。






いきなり人の部屋へ来て何をするのかと思ったら、桃は俺がいつも使っている小さな鏡の前に座り化粧を始めた。俺が出勤前に寝癖を直す程度にしか使わない鏡だから本当に小さい物だ。こんな全体が映らないものを使うより自分の鏡台で化粧したほうがやりやすいだろうに桃はわざわざ俺の部屋へきた。こういう時の彼女の魂胆は見えている。
いつものように一声かけて遠慮なくパタパタ入ってきた桃は夕方から院生時代の友人達に会うとかで化粧をしはじめた。大して変わらねーぞと言う俺に「うるさい」と一喝し、慣れない手つきで何やらパタパタやっていた。最後に紅筆で口紅を塗っていたのだけれど、ここへきて彼女の不器用さが炸裂したらしい。情けない顔で俺へと振り返った桃の口は紅が見事にはみ出して、それはもう、お気の毒さまと言いたいくらい。


「シロちゃ〜ん、お願い。」



はいはい、最初から失敗を見越して俺のところへきたわけね。俺は器用だからな、化粧だって髪結いだってそこそこできる。ほら、筆を貸してみろ。

俺は泣きべそをかきそうな桃の顎を僅かにあげて筆の先を桃の唇に走らせた。



「じっとしてろよ。」


「うん。」









暫しの沈黙。
風の音もしない。
桃が俺を見ているのがよくわかる。こんな、顎を捉えられて正面向かせられてちゃ俺を見るしかないわけだが、桃の瞳が真っ直ぐに俺へと向いていると思ったら柄にもなくやたら緊張してきた。


筆に紅をつけてなぞるように横へ引く。僅かに桃の息が手に温かい。
ふっくらと柔らかな唇が艶やかに光っていく。
まだ誰も触れたことの無い柔らかな唇が。



これはマズイ、何がマズイのか言いたくないが、兎に角マズイ。俺は無理矢理唇の色ぬりに集中した。
半開きの口の輪郭をなぞり、色艶を整えていくうちに胸がそわそわ落ち着かなくなるって…。
ふと視線を上へずらすとパチンと目が会い、俺は慌てて明後日へと視線を逸らしたけれど、また戻す。今度はソロリと窺うように桃を見た。
顎を少し上向かせられた桃は自然と俺を見下す角度になっていて、男を誘っているように見えてしまう。まだまだ大人の女には程遠いはずの桃がちょっとだけ艶めかしくみえて、困る。非常に困る。


んな表情するな馬鹿、とこっそり心の中で文句を言った。人のこと言えずに自分も十分ガキのくせしてなんだよその顔は。




「ほら、できたぜ。」


「わぁ、やっぱりシロちゃんは器用だね。」


「お前が女のくせに不器用なんだ」


「む!可愛くなーい!」


頬を膨らませた桃はもういつもの桃だった。さっきまでの艶めかしい眼差しなんか気配もない。細くて童顔で、色気なんて絞ったって出てきそうにないのに、なぜ無意識にあんな顔が出せるのか。
もしかしてどうかしているのは俺の方?いくら角度が上向きで紅を塗ってたからって、桃だぞ?
焦ってどうすんだ。

意識して一人勝手に慌てる俺の横で、持ってきた荷物を纏めた桃が桃色の唇でにっこり笑って近づいた。


「あたし、もう行くね。ありがとうシロちゃん。」


「わ、なにを…、」


俺が塗った唇がスッと近づいて頬に触れた。桃の温度が風に舞った花びらみたいに通り過ぎる。


俺が何か言おうと振り返った時にはもう桃は部屋の戸に手をかけていて、ひらひらと手を振っていた。


「くそ…油断した……。」


僅かに唇が触れた頬がどんどん熱くなってくる。俺はそこに掌をあてずにいられない。


沢山の人間に鈍感、鈍いと言われる桃は、自分でもそう自覚している。けども、どの辺が鈍いのかがわかっていない。これは時に重罪だ。



桃だって大人になるのだ。
本人よりも早く気づいた俺は、一つ苦労を背負いこんだ気分だった。



 

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