短編

□月下の闇
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雪が解け、新しく命が芽吹いていく季節になったとはいえまだ、春先。日中は太陽によってちょうどいいような温度でも、日が沈めば厚着をしなければ風邪をひいてしまいそうだ。


そして、今宵は満月。赤く光る月が妖しく地上を照らし出す。春先の冷たい澄んだ空気のせいなのか、いつもよりいっそう月の明かりが眩しく、はっきりしたものとなって目に届いてくる。


そんな月の下、どこか哀愁を漂わせた青年と呼ぶにはまだ幼い、しかし子供と呼ぶには大きすぎる少年が立ち去るところを建物の蔭から静に息を潜めて見守っている者がいた。


哀しい眼差しをした男は、もう別人のように大きくなった息子のもとに駆け付けたい衝動を腕に爪を食い込ませることで必死に抑える。


きっと、彼にとって自分はもういないような存在だろう。今更出て行ってももう、どうにもならない。それに、自分には彼に会う資格などないのだから。そう自分を戒めなければ今すぐにでもあの懐かしい空間へと無意識にでも駈けて行きそうだった。


それほど、恋焦がれている。


しかし、そんなことになれば被害を受けるのは今まで必死に守ってきた息子と愛しい妻なのだ。そうならないために今まで朦朧とする意識の中戦ってきたのに、この自分を取り戻し、意味のない罪の意識にさいなまれている時間に自分の欲のままに動いてしまっては意味がない。


少年の姿が見えなくなると、彼はため息をつき後ろにそびえ立つ建物の中へと戻って行った。






ここにはもう自分以外の人間はいないだろう。いや、正確に言えば生きている人間は、だ。人間だったものならそこら中にいる。しかし、どれも原形をとどめていないものばかりだ。辺りには鉄の臭いが充満している。普通の者ならこの光景を見なくとも吐いてしまいそうなほど濃い鉄の臭い。むせ返るのが普通だ。


しかし、その臭いに慣れてしまっている自分がいる。目の前の光景に不快に眉を寄せるも、臭いに対してはそこまで何も感じていない。それが今まで数々のしでかしてきたことへの罪の証であるかのようで、無意識のうちに口元を歪めていた。


不意に後ろに聞こえた足音に振り返れば、建物の蔭からゆっくりと出てくる人物がいた。その人物は建物によってできる蔭によって顔は見えない。


しかし、誰かなんてわかりきっている。ここにはいないと思っていた。いるはずなんてない、と。目を丸くする男を面白がるように目の前にいる人物は笑った。すでに限界が来ているようで動かなくなってきている頭を一生懸命に動かす。もう帰ったはずだ。俺に成り変って息子と一緒に…。


「やあ、セガ。」


まるで友達にあいさつでもするような調子で話しかけてきた男を睨みつける。懐かしい名前で呼ばれたが、この男に呼ばれれば、自分の名前も不浄なもののように思えてくる。


男は一歩一歩ゆっくりと蔭から出てきた。月明かりによって顔が見えてくる。その顔は見知っているようで、しかしもう二度と見たくなかった顔だ。


「なぜ、貴様がここにいる…。」


口の中が渇く。ゆっくりと唇を舐めてみるが渇きが潤うわけがない。この男を前にすれば、他では感じないような畏怖が全身をこわばらせる。いやな汗が全身から噴き出てくるのを感じた。


「何故?君と話すために決まっているだろう?」


さも当たり前というようにいってのけるこいつの顔が少しずつ霞んでいく。自分の奥から手招きをしているもう一人の自分がいる。同じ自分だがまったくもって違う人物。自我が少しずつ引き込まれるのを感じた。


だめだ。ここで引き込まれては…。


「君はそうやって自我を保つだけでも精一杯なのだろう?」


彼は嗤った。


嘲笑うごとく、狂ったように甲高いぞっとする笑い声がその場を満たした。脳髄に浸透するような笑う声は耳に残っては頭の中でも反響する。


「息子の前で自分が誰であるかを言えないなら、自我を保つ必要もないだろう?君の妻は僕が君の代わりに『愛して』いるよ。君の息子も可愛がっている。」


セガの身体はその場に崩れ落ちた。立ち上がろうとするも、まるで生まれたての小鹿のように足を動かすだけ。


荒い息を繰り返すセガ。男はそんなセガを冷たい瞳で見降ろした後、ふっと微笑む。慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、そっとセガの前に膝をつき、彼を抱きしめる。


「大丈夫だよ。君がやることをしっかりとやってくれれば全て返してあげる。君が望んで仕方ない日常とやらをね。でも、そのためにはやることをやってもらわなくてはいけないんだ。わかるよね?それさえやってくれれば僕はちゃんと約束は守るよ」


男がそう言い終わるが早いか、セガから鋭く刺すような殺気が放たれた。


しかし、それも一瞬のことでセガは座っていることもできずに地面に倒れこんだ。もう、抗う力も尽きたようだ。


それを見て男はゆっくりと立ち上がると卑下た笑みを浮かべた。


セガにはもう自分の意思が伝えられるほどの気力は残っていなかった。ただ頭の中で温かな日々をともにすごした妻と息子の笑顔が浮かんでは消えていく。


陽だまりのような温かな空間。今までずっと望んで、望んで仕方なかったもの。一滴の赤い涙が頬を伝った。
その涙を見て男は首をかしげる。


「何故泣く?泣く必要などないだろう。むしろお前は喜ぶべきだ。僕が直々に使ってやっているのだから。」


セガはわずかに残った意思で男を睨みあげた。ありったけの憎しみをこめた睨みを男はまっすぐに見つめ返し嗤う。


「そうだ、憎めばいい。その憎しみはだれに向けられると思う?君の息子になんだよ。…とはいっても、もう聞こえてないだろうけどね。」


足元にうずくまり微動だもしなくなった彼にそう吐き捨てると、男はその場を立ち去った。


月を分厚い雲が蔽い隠す。そうすれば、闇という闇がセガを取り囲んだ。闇はまるで生き物のようにセガの周りをうごめき、再び月が顔を出したとき、闇は雲とともにセガの周りから立ち去った。


彼は立ち上がり、冷たい氷のような目で一度あたりを見渡すと、周囲に殺気を放ちながら闇の中に消えていった。


残された月はすべての出来事から目を背けるように再び雲の中へと帰って行った。

 

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