短編

□珈琲
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香る珈琲をお盆に載せ彼女が数時間前から籠っている部屋をノックする。


いつもながらに返事がないドアに軽くため息をつく。今日も彼女は今やっていることに没頭しているのだろう。まわりの音も聞こえないぐらいに。そんな彼女が易々と想像できて少し笑ってしまった。


意味はないと思うが、あまり音をたてないようにそっと開く。中を覗けば、もう見慣れてしまった足の踏み場もないほどに物が散らばっている部屋。部屋には絵具のなんとも言えない匂いが充満している。


その匂いにすこし眉をしかめながらも、足場に注意しながら中へと入る。開け放たれた窓からはさわやかな風が入り、白いカーテンを揺らす。それがなんとも幻想的だった。


まさに、絵のようであり、ドラマに出てきそうな一場面であった。そして、彼女は窓際に座り真剣な目つきで筆を持ってキャンバスに何かを描いている。


彼女は黒い長そでオーバーオールを着て、腕の部分を腰で結んでいる。カラフルな色がちりばめられているかつて黒一色だったオーバーオールは、彼女にとてもよく似合っていた。そして上にはこれまた黒のティーシャツを着ている。腰まであるはずの長い髪は彼女が今までなんとなしに伸ばしてきたものだと言っていた。その髪は無造作に後ろで一つに結ばれている。


彼女が筆を持ち始めたら、全ての音を遮断してそこにのめりこむのは大学の時から変わらない。彼女の絵は大学でも高く評価されていた。よく彼女から、今日も絵が売れた。と、抑揚のない声で報告を受けた。


しかしここからの位置ではどんなものを描いているのか見えなかった。でも、きっと色彩あふれる何ともいえず感嘆のため息を漏らすような絵なのだろう。僕はそっちの方には詳しくはないのだが。


近くのテーブルに珈琲を置いて、筆をキャンバスから離したところで肩をたたく。ビクッと震えた肩はゆっくりと振り返り、焦点の合わない目がそろりと僕の方を見る。後ろにいる人物に焦点が合うと、彼女はそっと息をついた。


「吃驚したわ。」


「ごめんね。でも、呼んでも気づかないからだよ。」


彼女は少し考えるように視線をさまよわせた後、そうね、と言って再び絵に向かい始めた。そんな彼女の肩越しに絵を見やれば、想像していたものと違った。


「…珍しいね。君の絵に色がこんなにも少ないなんて。」


彼女が今描いているのは色彩あふれるものではなくて、真っ黒な背景に中央を通る一本の灰色の道。

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